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つるつるの手帖

なにかおもしろいことないかなー

「iMovie」と「PremierePro」の比較

camera Movie

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八幡宮例大祭

毎年10月に行われる地元のお祭を撮影し、編集してショートムービーをこさえている。
わたしの、ちょっとした楽しみである。

今年から、Adobe PremiereProで編集することにした。……あ、CS6です。
iMovieは、撮影から2週間も時間があれば完成していたが、さすがPremierePro、できることが格段に増えたので、どうしても凝り過ぎてしまう。
結局、出来上がったのは3ヶ月後。
まぁ、おもしろいのができたとも言えるが、凝り過ぎて初期衝動が薄まってしまった気がする。
撮影が上手くいかなかったところは、編集でなんとかしようとしても、なんともならないものだな……。

また来年、がんばる……。

■ 昨年(一昨年度の祭り)を、 iMovieで編集した映像


平成二十六年度 府八幡宮例大祭|心誠社

■ 今年(昨年度)の祭りを、PremiereProで編集した映像


平成二十七年度 府八幡宮例大祭|心誠社

編集のすゝめ|ウォルター・マーチについて

camera Movie Person

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映画の瞬き―映像編集という仕事

映画の瞬き―映像編集という仕事

■「映像」をつなぐ

映像を編集してみるようになって気付いたことがある。ごく当たり前のことのようにも思えたが、よくよく考えてみれば、とても不思議なことかも知れない。人間の寛容さに関する「謎」と言ったら大げさか?

ぼくが感じた疑問とまったく同じ「謎」が、映画編集者ウォルター・マーチの著作『映画の瞬き―映像編集という仕事』に書かれていた。

P.20「なぜカットが機能するのか」 〜 映画の瞬き―映像編集という仕事
 
ほとんどすべての長編映画は、多くのショットが繋ぎ合わさって一本の作品としてなりたっている。そこで突き当たる謎のひとつは、断片の数々を切り繋ぐこと(カット)で出来上がった一連の映像が、なぜ不自然に見えずに機能しているのかということだ。ある視界から別の視界へ瞬時にしてガラリと転換され、ときには空間だけでなく時間までもが、その前後関係すら無視して自由にジャンプしているというのに。
私たちの日常では、そのようなことは起こらないし、起こりえるという仮定のもとに生活している人もいないのに、映画ではなぜかこれが受け入れられる。

映画の作り手も、観て楽しむぼくたちも、マーチが書くように、編集された映像に人が思いのほか鈍感だったことに感謝しよう。この特性によって、映画はさまざまな表現を手に入れることができたのだ。もし受け入れられていなかったとしたら、映像作品はどれも時間軸に沿ったものしか作れないことになる。編集どころか撮影にしても、きっと長回しだらけになって、役者や監督、カメラマンたちは、今よりもずっと苦労していたに違いない。

目から映像が入り、脳が認識するまでの生物学的なプロセスこそ分からないが、ウォルター・マーチの言葉を借りれば、この「非連続性こそが映画製作そのもの」だということだ。

断片の数々を切り繋ぐこと(カット)で出来上がった一連の映像が、
なぜ不自然に見えずに機能しているのか

この「謎」についての答えはまだ宙に浮いたままだが、そこが『映画の瞬き』の核心でもあるので、結論は急がないようにしよう。ヒントはタイトルにある。

映像を「撮る」ということ

昨年から、一眼レフで映像を撮り始めた。しかし、今までスチール写真だけを扱ってきたからか、始めたものの「動画の撮影」には、まったく馴染めないでいた。何を基準に、どこを見て、体のどこを動かして撮れば良いのか、つかみどころがないように思えた。時間という概念が増えただけで、こうも勝手が違うのかと、ずいぶん戸惑った。mizzan72.hatenablog.com
それが、なんとか受け入れられるようになったのは、撮った素材を集めていちど編集をしてみたあとだ。
カットを繋ぐには、リズムというか、なにか「呼吸」のような存在が要るのである。誰にも教わらなかったが、編集をはじめるとすぐ、この「呼吸」の必要性に気がついた。
そのあと改めて撮影に臨んでみると、編集のときの「呼吸」をどこかで意識した自分がいた。ちょうど楽器演奏の際、ガイドになるクリック音を聴きながらだとテンポが安定するように、撮影も、リズムを感じながらの方が断然やりやすいのだ。しかしながら、この「呼吸」というものは、作業する人間が、たまたま持ち合わせていた生理的なリズムであり、おそらく一般的なノウハウにまで拡げて説明がつくものではないだろう……撮影しながら、そんなことも思ってもいた。

だから驚いた。

『映画の瞬き―映像編集という仕事』の中で、この「呼吸」のメカニズムが、ウォルター・マーチによって解明されているのを発見し、思わず「えっ」と声が出た。しかも、そのクリック音は、ぼくが想像していた「呼吸」なのではなく、本書のタイトルにもなっている「瞬き」だったことに、もう一度びっくりする。

ウォルター・マーチ

映画もまた編集である――ウォルター・マーチとの対話

映画もまた編集である――ウォルター・マーチとの対話

ここで、ウォルター・マーチについて。
ジョージ・ルーカスや、フランシス・フォード・コッポラと時を同じくして映画の世界に入り、彼らからの信頼も厚い。しかし編集者という職種からだろうか、知名度はふたりほど高くはない。ぼくがマーチをはじめて知ったのは、マイケル・オンダーチェによって書かれた、この本だった。
オンダーチェは、映画「イングリッシュ・ペイシェント」の原作を書いた作家であり、マーチはこの映画の編集者だ。オンダーチェがマーチに「イングリッシュ・ペイシェント」の編集過程をインタビューする形式で、本書は進む。

ウォルター・マーチは、まず音を扱うサウンドエディターとして、映画人のキャリアをスタートさせている。本書にも、映像について述べた部分以上に、音に対する鋭い感覚を述べた箇所が多い。
以下におもな作品と、担当した役割を挙げてみる。


これらの作品を観ることと、『映画の瞬き―映像編集という仕事』『映画もまた編集である』この2冊を合わせて読むことで、ウォルター・マーチという人が何を考えて仕事に取り組んでいるのかが、立体的に捉えられる。本を読み終えて、まず印象に残るのは、深思の末に語られるマーチの言葉の拡がり方と奥深さだ。結論がどれも映像編集の枠にはとどまらないのだ。
例えば、もう少し突っ込んで話しを拡げようとする場合、マーチは、科学、心理学、医学、文学など様々な分野から例を挙げて、説明を試みる。それらの言葉は不思議なことに、まるでボブ・ディランの歌詞の如く響き、人生において聞き逃せない、なにか大切なことを言っているようにも感じられる。驚くべき説得力だ。

とにかく知識の範囲がやたら広く、そこから導き出される結論が、理路整然としているくせに、いずれも独創的な話しばかりなのだ。おそらくウォルター・マーチはこの、話しをまとめるという能力だけで、他のどんな分野に行っても、一定の成功を収めたであろう天才なのだということが分かる。

YouTubeで観た映像への違和感

ぼく自身、撮ることも編集することもはじめたばかりなので、分かったようなことは言えないが、ここでは少しだけ生意気なことを書いてみる。
映像編集をはじめてから、参考のためにYouTubeにアップされている一眼レフムービーを観るようになった。中には「おぉっ!」というものもあるのだが、その多くは始まって直ちに再生を止めることになる。

なるほど映像は高品質である。三脚や簡易ドリー、スタビライザーなどの道具を駆使し、構図や視点の移動には充分工夫を凝らしてある。しかし、そんな仕上がりのクォリティ云々といったこととは別に、観はじめたそばからなにか違和感を覚え、そのうち苦痛になってくるのだ。例えば、結婚式の「撮って出しムービー」には、ほぼすべて、このモヤモヤを感じる。
はじめは理由がわからず「あれぇ……映っている人に馴染みがないから、観ていられないのかなぁ。映像自体はとっても綺麗なのに……」なんて思っていた。確かに、映っている人を知らないということも一因だが、どうやらこのモヤモヤの原因は、違うところにあるようだ。じつはテレビを見ていても、同じように感じることがある。不思議なことに、映画ではほとんどないのだけれど。

じつはこれ、ウォルター・マーチが示したカットの心得を読んでいたら、腑に落ちる理由が見つかった。編集した映像を、人はなぜ違和感無く観ることが出来るのか?……マーチはその理由を、人間の生理現象を結びつけ、考えている。この考察は大変おもしろいので、やはり本書を読んでいただくのが一番だと思う。ここには、マーチが人から言われたという「映像編集」という作業を偏見の目で見られたときのエピソードを、引用するにとどめる。
つまり、ぼくの感じた違和感は、編集およびカットに起因する問題だったのだ!
(……では、自分の作ったものがきちんと出来ていのるか、というのは、コホン。……それは、今後の努力次第ということで……汗)

P.25「出来の悪い部分を取り除く」仕事 〜 映画の瞬き―映像編集という仕事

〜妻の幼なじみ数人とはじめて対面したときのはなしだ。
「ところで君の仕事は?」と尋ねられたので、「映画編集を勉強中だ」と答えると、「あぁ、映画の編集ね。映像の出来の悪い箇所を取り除く仕事ってわけだ」と、その男にしたり顔で言われた。当然私は腹を立てて(とは言っても礼を失しない程度に)やり返した。
「そんな単純なものじゃないよ。映画編集は、構成、色、活力、時間操作、その他にも色々な側面があって」という感じに……。思えばあの時、彼が思い描いていたことは、たとえば「おっと、この画はひどいな、ここをカットして取り除こう」というようなホーム・ムービー編集のことだったのだろう。しかし、あれから25年以上の歳月が流れた今になって、彼がはからずも口にしたあの言葉に、価値を認めることができるようになってきた。
編集作業とは、ある意味、本当に出来の悪い箇所を取り除く作業なのだ。問題はむしろ、「何を指して出来が悪いとするか?」である。ホーム・ムービーを撮影していてキャメラがフラついて映像がブレたら、それは間違いなく出来の悪い箇所だし、その部分をカットしようとするのは当たり前だろう。通常のホーム・ムービー作品が目指しているものは単純で、時間的に連続した出来事を再構成せずに記録することにある。これに対し、物語を描く映画作品はずっと複雑で、時間構成が断片的だったり、内的感情を表現したりしなければならず、その難しさに比例して、何をもって「出来が悪い箇所である」と決定づけるかも複雑になる。ある映画では悪い部分も、別の映画では良い部分になりえるのだから。正直な話、見方によっては、ポスプロのプロセスそのものを、その映画限定の「悪い箇所」を探し出す作業だと言い換えることができるほどだ。つまり編集者は、そういった「悪い箇所」を探し出して取り除くことにより、残された「良い箇所』で構築された作品を崩壊させないようにしているのである。

 

■(編集における)6つのルール

では、どうやってその「良い箇所」と「悪い箇所」を見分ければ良いのか?
ウォルター・マーチは『映画の瞬き―映像編集という仕事』の中で、編集における「6つのルール」を挙げている。横にあるパーセントは、マーチが独断で付けた重要度だそうだ。優先度が高い順に並べてあり、編集作業ではこの順番を意識して素材を選び、カットする場所を探すのだそう。
ちなみに一般的な映画学校では、マーチが最も重要ではないと考える「3次元空間の連続性」を、映像編集の最も重要なルールとして扱うとのこと。

  1. 感情 _ 51%
  2. ストーリー _ 23%
  3. リズム _ 10%
  4. 視線 _ 7%
  5. スクリーンの2次元性 _ 5%
  6. 3次元空間の連続性 _ 4%

筆頭に挙げられている「感情」については、補足が必要だろう。

P.34 6つのルール 〜 映画の瞬き―映像編集という仕事
 
観客にどのように感じて欲しいのか。自分が意図した通りの感情を観客が最期まで抱き続けてくれたら、それは編集者としての仕事を完璧にやり遂げたことを意味する。最終的に観客の記憶に残るものは、編集技術でもなければ、キャメラワークでも、役者の演技でも、実はストーリーですらない。感情なのだ。

感情が残る

最終的には、感情が残る。確かにぽくが違和感を感じた映像は、どこかこの感情を妨げるようなリズムで編集されていたのだと思う。

ウォルター・マーチという人は、常に観客がどう感じるのかということを意識して作品を作っている。
そんなことを思い出しながら『存在の耐えられない軽さ』を観ていたら、気にも留めていなかったちょっとしたカットのひとつひとつから、マーチの意図が伝わってくるようだった。ダニエル・デイ・ルイスジュリエット・ビノシュの発する言葉も、なんだかぼくに向けられているようで愛しくなってきた。

マーチも言っているが、映画の出来が良いと、集団の一員として観ているのにもかかわらず、その作品が自分だけに直接語りかけているように感じられる。
この体験をウォルター・マーチは「集団的私体験」と名付けている。

ぼくが作る映像もいつか、ほんのすこしでもいいから、だれかの感情が動かせるようになるとよいのだけれど。


平成二十六年度 府八幡宮例大祭|心誠社 - YouTube


iMovie

iMovie

Final Cut Pro

Final Cut Pro

人間の土地|サン=テグジュペリ

Book Person

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※ 今回のエントリーは、以前書いていた「鶴の手帖」というブログの2014年1月20日の内容に、若干の修正を加えて転載した記事となります。

人間の土地|堀口大學

堀口大學による訳は、1955年(昭和30年)刊とのことなので、言い回しは古臭く、現代の翻訳と比べれば、読みにくいうちに入るだろう。
しかしその文章は、限りなく美しいと思う。あえて読みにくくすることで、上澄みだけをかすめ盗ろうとする者たちから、真実を守っているようにも思える。

ふたつの視点

池波正太郎さんのエッセイの中にその名前を見つけて、サン=テグジュペリの「人間の土地」を読んだ。
サン=テグジュペリは操縦士を勤める傍ら小説やエッセイを書いた。「人間の土地」は、郵便輸送パイロットとしての経験を元に書かれたものである。
このエッセイが面白いのは、自然を尊ぶ作家としての情緒的な視点と、文明や機械に心躍らせる操縦士としての視点、その両方が対立することなく手を取り合っているところだ。
ときに自然と文明とは決して交われないものとして語られることもあるが、作者はそのどちらへも分け隔てなく愛情を注いでいる。

宮崎駿監督への影響

ところで、スタジオジブリ宮崎駿さんはサン=テグジュペリに大きな影響を受けているそうだ。監督もひとつには、自然と文明のあいだで絶妙にバランスをとる、作者個人の魅力に惹かれたのではないか。
「人間の土地」新装版で、宮崎監督は表紙を手がけており、あとがきには「空のいけにえ」と題した文も寄せている。
なるほど、自然におののきながらもその神秘性に惹かれ、文明の持つ残酷な一面を否定しつつも、機械の魅力の虜になってしまう。これは、サン=テグジュペリ、宮崎作品に共通するテーマなのかも知れない。
例えば「風の谷のナウシカ」では、幻想的なテクスチャを持つ雲の風景の中を、精巧なディティールで造られた機械であるメーヴェが飛んでいる。

ぼくは「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」は大好きだが、残念ながら「紅の豚」も「風立ちぬ」も観ていないので、「人間の土地」が宮崎監督の仕事に与えた影響ついて、残念ながらこれ以上書くことはできない。

美しい言葉たち

またこの本には、すこし青臭いが、清潔で、他にも引用されるような美しい言葉が多い。

  • 経験はぼくらに教えてくれる、愛するということは、おたがいに顔をみつめあることではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだと(p.243)
  • 真の贅沢というものは、ただ一つしかない、それは人間関係の贅沢だ(p.45)

ぼくが気に入っているのは、自然を描写した部分だ。すこし長いが、書き出してみる。

自然の描写、詩的な表現

空の上は冷たく、持続する発動機の音だけが聞こえる世界。
僚友メルモスが飛行中、竜巻に遭遇する場面だ。

p.29「定期航空」
そこには竜巻がいくつとなく集まって、突っ立っていた。一見それらは寺院の黒い円柱のように不動のものに見えた。それら竜巻の円柱は、先端にふくらみを見せて、暗く低い暴風雨の空をささえていた、そのくせ、空の隙間からは、光の裾が落ちてきて、耿々たる満月が、それら円柱のあいだから、冷たい海の敷石の上に照りわたっていた。そしてメルモスは、これら無人の廃墟の間を横切って、光の瀬戸から瀬戸へとはすかいに、海が猛り狂いつつ昇天しているに相違のない巨大な竜巻の円柱を回避しながら、自分の路を飛びつづけた。月光の滝津瀬に沿うて、前後四時間の飛行ののち、彼はようやくその竜巻の寺院の出口へ出ることができた。しかも、その光景が、いかにも圧倒的なものだったので、黒鳴戸(ポトオノアール)から開放されたときになって、はじめて、メルモスは気づいた、自分が恐怖感はもたずにしまったことに。

……ものごとをできるだけ美しく表現しようとする意図が感じられる。自然の恐ろしさを、あえて美しい比喩を使って表現することで、最後の一文「〜はじめて、メルモスは気づいた、自分が恐怖感はもたずにしまったことに」が生きてくる。
美しい表現はまた、操縦士の空における孤独さも強調する。

もうひとつ。出発前の準備をする場面。

p.115「砂漠で」
〜さて、ぼくは身支度を始める。信号燈、高度計、鉛筆を腰のベルトに結びつける。今夜、ぼくの通信士になってくれるネリの所へ行ってみる。彼もぼくがしたように髭を剃っている。ぼくから声をかけてみる、<元気かい?> さしあたり元気が当然なのだ。なにしろこの準備作業は、飛行のいちばん楽な部分だから。ところがぼくは、ジーッという音を聞きつける。ぼくのランプに蜉蝣(かげろう)が突き当たったのだ。なぜというわけもなしに、この蜉蝣がぼくの心臓をつねる。

「ぼくの心臓をつねる」操縦士としての日常に、普段は表に出てこないが、小さな不安が常に存在することがわかる文章だ。不安な気持ちのサイズ感が「つねる」という言葉で的確に表現されている。

■ 技術、機械、文明を眺める視点

次に、サン=テグジュペリが文明と機械、そしてそれらを使いこなす側の人間について述べている部分を書き出してみよう。本質を言い当てていると思う。

(p.66)「飛行機」
現代技術のあまりにも急速な進歩に恐れをいだく人々は、目的と手段とを混同しているようにぼくには思われる(中略)飛行機も目的ではなくて一個の道具なのだ。鋤(すき)のように一個の道具なのだ。

(p.69)
〜機械でさえも完成すればするほど、その役割が主になって、機械それ自身は目立たなくなってくるのがつねだ(中略)外見的には、その翼を、それが目立たなくなるまで、機体についている翼があるという感じがなくなり、最後には完全に咲ききったその形が、母岩から抜け出して、一種奇跡的な天衣無縫の作品として、しかも一編の詩品のようなすばらしい質をそなえて現れるときまで、この調和を軽快にし、目立たなくし、みがきあげるにはほかならないと思われる。完成は付加すべき何ものもなくなったときではなく、除去すべき何ものもなくなったときに達せられるように思われる。発達の極地に達したら、機械は目立たなくなってくるだろう。

機械を使うことそのものを目的とするのではなく、あくまで道具として使いこなすことが大切であり、機械そのものや、機械を使っているという感覚はむしろ目立たない方が良い、と言っている。
目的を達成するために、ただそこにあるべくしてある。デザインの本質だ。

文明を否定するのではなく、また手放しで絶賛するのでもない。目まぐるしく進化するスピードにも負けていない。
現代では、こういった考え方もひとつの主流だが、この文章が書かれたのは1939年(昭和14年)である。かなりの先見性と言えるのではないか。文学と科学の境界に立つ、サン=テグジュペリの本領発揮といったところだろう。
すこし話は逸れるが、Appleスティーブ・ジョブズも、自分が文系とテクノロジーの境界に立っている意識が強かったようだ。
ベクトルが真逆のふたつの意識が共存する人物は魅力的だ。mizzan72.hatenablog.com


人間

先に書いたように、本書には美しい言葉がたくさん見つけられる。できれば原文をあたりたいのだが、それは外国語ができないぼくには叶わないので、サン=テグジュペリがどんな文体なのかは想像するしかない。
しかし日本語版に限って言えば、堀口大學訳の素晴らしさもその清潔さの追い風になっていると思う。

最後に、いちばん好きだった一文を書き出してみる。

(P.252)「人間」
死というものは、それが正しい秩序の中にある場合、きわめてやさしいものだ。たとえば、プロヴァンスの老いたる農夫が、自分の世代の終わりに際して、自分の持ち分の山羊とオリーヴの木を、息子たちに与えて、彼らもまた彼らの順番に、彼らの息子の息子たちに分け与えさせようとする、あのときのようなものだ。農夫の家系にあっては、人は半分しか死なぬ。おのおのの一生は、自分の番が来ると、莢(さや)のように割れて、種を伝える。

親から子へ。時間は流れる

本書は、飛行士が書いたエッセイという枠を越えて迫ってくる。
ぼくは40代になって、それまで自分自身に向いていた関心が、自分の親や子どもたちに移っていった。自我を持つひとりとして今ここに存在するのと同時に、大きな時間の流れの一部であることがだんだんとわかってきた。これは最近の大きな変化だ。

ある日道端に小さな草花を見つけたときの感情の動き、自分が偶然発見したと思っていた日常における生きるための創意工夫。
そういうまったくぼく個人の問題だと思っていたことが、じつは親から引き継いだ感情であったり、子供たちへ分け与えるべき知恵の連鎖だったりすることに気づいたのだ。

この感覚は、悪くない。
自分のもののようで、自分のものではない感覚、ぼくの半分は過去と未来の時間で出来ていたのだ。「死というものは〜」ではじまる、プロヴァンスの農夫について書かれた先の文章を読んでいて、こんなことを考えた。

自分の中の自分でない半分に気づいたその時、急に重くなった責任と、なぜか拍子抜けした感覚が、みなさんにうまく伝わっただろうか。


最後に。
あえて今回は取り上げなかったが、アンデスの冬山から奇跡の生還を遂げた僚友ギヨメに、語り掛けるように書かれた章は必読だ。
ぼくは三度読み返して、三度とも泣いてしまった。

人間の土地 (新潮文庫)

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夜間飛行 (新潮文庫)

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星の王子さま―オリジナル版

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