つるつるの手帖

なにかおもしろいことないかなー

人間の土地|サン=テグジュペリ

f:id:mizzan72:20140119163402j:plain
※ 今回のエントリーは、以前書いていた「鶴の手帖」というブログの2014年1月20日の内容に、若干の修正を加えて転載した記事となります。

人間の土地|堀口大學

堀口大學による訳は、1955年(昭和30年)刊とのことなので、言い回しは古臭く、現代の翻訳と比べれば、読みにくいうちに入るだろう。
しかしその文章は、限りなく美しいと思う。あえて読みにくくすることで、上澄みだけをかすめ盗ろうとする者たちから、真実を守っているようにも思える。

ふたつの視点

池波正太郎さんのエッセイの中にその名前を見つけて、サン=テグジュペリの「人間の土地」を読んだ。
サン=テグジュペリは操縦士を勤める傍ら小説やエッセイを書いた。「人間の土地」は、郵便輸送パイロットとしての経験を元に書かれたものである。
このエッセイが面白いのは、自然を尊ぶ作家としての情緒的な視点と、文明や機械に心躍らせる操縦士としての視点、その両方が対立することなく手を取り合っているところだ。
ときに自然と文明とは決して交われないものとして語られることもあるが、作者はそのどちらへも分け隔てなく愛情を注いでいる。

宮崎駿監督への影響

ところで、スタジオジブリ宮崎駿さんはサン=テグジュペリに大きな影響を受けているそうだ。監督もひとつには、自然と文明のあいだで絶妙にバランスをとる、作者個人の魅力に惹かれたのではないか。
「人間の土地」新装版で、宮崎監督は表紙を手がけており、あとがきには「空のいけにえ」と題した文も寄せている。
なるほど、自然におののきながらもその神秘性に惹かれ、文明の持つ残酷な一面を否定しつつも、機械の魅力の虜になってしまう。これは、サン=テグジュペリ、宮崎作品に共通するテーマなのかも知れない。
例えば「風の谷のナウシカ」では、幻想的なテクスチャを持つ雲の風景の中を、精巧なディティールで造られた機械であるメーヴェが飛んでいる。

ぼくは「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」は大好きだが、残念ながら「紅の豚」も「風立ちぬ」も観ていないので、「人間の土地」が宮崎監督の仕事に与えた影響ついて、残念ながらこれ以上書くことはできない。

美しい言葉たち

またこの本には、すこし青臭いが、清潔で、他にも引用されるような美しい言葉が多い。

  • 経験はぼくらに教えてくれる、愛するということは、おたがいに顔をみつめあることではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだと(p.243)
  • 真の贅沢というものは、ただ一つしかない、それは人間関係の贅沢だ(p.45)

ぼくが気に入っているのは、自然を描写した部分だ。すこし長いが、書き出してみる。

自然の描写、詩的な表現

空の上は冷たく、持続する発動機の音だけが聞こえる世界。
僚友メルモスが飛行中、竜巻に遭遇する場面だ。

p.29「定期航空」
そこには竜巻がいくつとなく集まって、突っ立っていた。一見それらは寺院の黒い円柱のように不動のものに見えた。それら竜巻の円柱は、先端にふくらみを見せて、暗く低い暴風雨の空をささえていた、そのくせ、空の隙間からは、光の裾が落ちてきて、耿々たる満月が、それら円柱のあいだから、冷たい海の敷石の上に照りわたっていた。そしてメルモスは、これら無人の廃墟の間を横切って、光の瀬戸から瀬戸へとはすかいに、海が猛り狂いつつ昇天しているに相違のない巨大な竜巻の円柱を回避しながら、自分の路を飛びつづけた。月光の滝津瀬に沿うて、前後四時間の飛行ののち、彼はようやくその竜巻の寺院の出口へ出ることができた。しかも、その光景が、いかにも圧倒的なものだったので、黒鳴戸(ポトオノアール)から開放されたときになって、はじめて、メルモスは気づいた、自分が恐怖感はもたずにしまったことに。

……ものごとをできるだけ美しく表現しようとする意図が感じられる。自然の恐ろしさを、あえて美しい比喩を使って表現することで、最後の一文「〜はじめて、メルモスは気づいた、自分が恐怖感はもたずにしまったことに」が生きてくる。
美しい表現はまた、操縦士の空における孤独さも強調する。

もうひとつ。出発前の準備をする場面。

p.115「砂漠で」
〜さて、ぼくは身支度を始める。信号燈、高度計、鉛筆を腰のベルトに結びつける。今夜、ぼくの通信士になってくれるネリの所へ行ってみる。彼もぼくがしたように髭を剃っている。ぼくから声をかけてみる、<元気かい?> さしあたり元気が当然なのだ。なにしろこの準備作業は、飛行のいちばん楽な部分だから。ところがぼくは、ジーッという音を聞きつける。ぼくのランプに蜉蝣(かげろう)が突き当たったのだ。なぜというわけもなしに、この蜉蝣がぼくの心臓をつねる。

「ぼくの心臓をつねる」操縦士としての日常に、普段は表に出てこないが、小さな不安が常に存在することがわかる文章だ。不安な気持ちのサイズ感が「つねる」という言葉で的確に表現されている。

■ 技術、機械、文明を眺める視点

次に、サン=テグジュペリが文明と機械、そしてそれらを使いこなす側の人間について述べている部分を書き出してみよう。本質を言い当てていると思う。

(p.66)「飛行機」
現代技術のあまりにも急速な進歩に恐れをいだく人々は、目的と手段とを混同しているようにぼくには思われる(中略)飛行機も目的ではなくて一個の道具なのだ。鋤(すき)のように一個の道具なのだ。

(p.69)
〜機械でさえも完成すればするほど、その役割が主になって、機械それ自身は目立たなくなってくるのがつねだ(中略)外見的には、その翼を、それが目立たなくなるまで、機体についている翼があるという感じがなくなり、最後には完全に咲ききったその形が、母岩から抜け出して、一種奇跡的な天衣無縫の作品として、しかも一編の詩品のようなすばらしい質をそなえて現れるときまで、この調和を軽快にし、目立たなくし、みがきあげるにはほかならないと思われる。完成は付加すべき何ものもなくなったときではなく、除去すべき何ものもなくなったときに達せられるように思われる。発達の極地に達したら、機械は目立たなくなってくるだろう。

機械を使うことそのものを目的とするのではなく、あくまで道具として使いこなすことが大切であり、機械そのものや、機械を使っているという感覚はむしろ目立たない方が良い、と言っている。
目的を達成するために、ただそこにあるべくしてある。デザインの本質だ。

文明を否定するのではなく、また手放しで絶賛するのでもない。目まぐるしく進化するスピードにも負けていない。
現代では、こういった考え方もひとつの主流だが、この文章が書かれたのは1939年(昭和14年)である。かなりの先見性と言えるのではないか。文学と科学の境界に立つ、サン=テグジュペリの本領発揮といったところだろう。
すこし話は逸れるが、Appleスティーブ・ジョブズも、自分が文系とテクノロジーの境界に立っている意識が強かったようだ。
ベクトルが真逆のふたつの意識が共存する人物は魅力的だ。mizzan72.hatenablog.com


人間

先に書いたように、本書には美しい言葉がたくさん見つけられる。できれば原文をあたりたいのだが、それは外国語ができないぼくには叶わないので、サン=テグジュペリがどんな文体なのかは想像するしかない。
しかし日本語版に限って言えば、堀口大學訳の素晴らしさもその清潔さの追い風になっていると思う。

最後に、いちばん好きだった一文を書き出してみる。

(P.252)「人間」
死というものは、それが正しい秩序の中にある場合、きわめてやさしいものだ。たとえば、プロヴァンスの老いたる農夫が、自分の世代の終わりに際して、自分の持ち分の山羊とオリーヴの木を、息子たちに与えて、彼らもまた彼らの順番に、彼らの息子の息子たちに分け与えさせようとする、あのときのようなものだ。農夫の家系にあっては、人は半分しか死なぬ。おのおのの一生は、自分の番が来ると、莢(さや)のように割れて、種を伝える。

親から子へ。時間は流れる

本書は、飛行士が書いたエッセイという枠を越えて迫ってくる。
ぼくは40代になって、それまで自分自身に向いていた関心が、自分の親や子どもたちに移っていった。自我を持つひとりとして今ここに存在するのと同時に、大きな時間の流れの一部であることがだんだんとわかってきた。これは最近の大きな変化だ。

ある日道端に小さな草花を見つけたときの感情の動き、自分が偶然発見したと思っていた日常における生きるための創意工夫。
そういうまったくぼく個人の問題だと思っていたことが、じつは親から引き継いだ感情であったり、子供たちへ分け与えるべき知恵の連鎖だったりすることに気づいたのだ。

この感覚は、悪くない。
自分のもののようで、自分のものではない感覚、ぼくの半分は過去と未来の時間で出来ていたのだ。「死というものは〜」ではじまる、プロヴァンスの農夫について書かれた先の文章を読んでいて、こんなことを考えた。

自分の中の自分でない半分に気づいたその時、急に重くなった責任と、なぜか拍子抜けした感覚が、みなさんにうまく伝わっただろうか。


最後に。
あえて今回は取り上げなかったが、アンデスの冬山から奇跡の生還を遂げた僚友ギヨメに、語り掛けるように書かれた章は必読だ。
ぼくは三度読み返して、三度とも泣いてしまった。

人間の土地 (新潮文庫)

人間の土地 (新潮文庫)

夜間飛行 (新潮文庫)

夜間飛行 (新潮文庫)

星の王子さま―オリジナル版

星の王子さま―オリジナル版

あるヨギの自叙伝 |パラマハンサ・ヨガナンダ

あるヨギの自叙伝

あるヨギの自叙伝

※ 今回のエントリーは、以前書いていた「鶴の手帖」というブログの2013年9月16日の内容に、若干の修正を加えて転載した記事となります。

ジョブズの愛読書

先のエントリーでは「スティーブ・ジョブズ I」「スティーブ・ジョブズ II」を取り上げましたが、その下巻で、ハワイに行くジョブズiPad2に、唯一ダウンロードされていた本である、と紹介されていたので、この「あるヨギの自叙伝」も読んでみました。

ジョブズはこの本を毎年、読み返していたそうです。書名だけは聞いたことがありましたが、今回初めて読みました。不思議な本です。

著者であるパラマハンサ・ヨガナンダ(1893-1952)は、現代インドの聖人であり、東洋の叡智であるヨガを西洋に初めて伝えた伝道師だそうです。師の導きに従い、後年はアメリカに渡りました。若き日のジョブズインド哲学に傾倒していて、この本はそのころ読み始めたようです。キリストのような聖人が自ら書き下ろした書物という意味でも、貴重な記録です。

スティーブ・ジョブズ I」「スティーブ・ジョブズ II」によると、ジョブズは、自身がアナログとデジタルの境界線に立っていることを強く意識していたようですが、そこにはこのパラマハンサ・ヨガナンダが、東洋と西洋の間に立っていた人物だったことの影響もあったのでしょうか。
宗教家が書いた本、というととても堅い本のように思えますが、じつは、これがかなり面白い。
要約すれば、パラマハンサ・ヨガナンダの成長の記録なのですが、そこに現れる聖人たちが起こす、数々の超常現象の面白さは、まるでエンターテイメント映画を観ているようです。

若いころのパラマハンサ・ヨガナンダ自身の描写は、とてもお茶目です。彼自身の言葉を信ずれば、学校の勉強もそれほど出来た方ではないようです。
なんといっても、宗教にかぶれ、勉強をおろそかにしていた大学時代のあだ名が「気違い坊主(きちがいぼうず)」なのですから!!また、若いころの彼は、我を押し通そうとしたり、周囲に流されることも多く、師から叱られるエピソードも数多く書かれています。
しかし、自身の宗教的な才能に早くから気付き、世俗的な生活を送りつつも、師に学び、自分の心と対話することを通して、世の中を動かしている真理を追い求めます。

なぜこの本を読み返していたのか?

唯物主義を批判し、心の在り方を説いたこの本を、世界一のテクノロジー企業のトップが気持ちの拠り所にしていたとは、ちょっと信じられない。しかし普通に理解しようとしたら、それは信じられないのですが、Appleの製品の素晴らしさを知っている人には伝わるでしょう。この本に書いてあることは、どこをどうとってもジョブズらしいのです。
例えば、真理を追求することと、シンプルさを追い求めることは、根底において同じです。つまり、どちらも「これは何か?なんのためにあるのか?」ということを、ひたすら考え続ける哲学的な作業だからです。

インドからの影響を受けたジョブズが作り上げたAppleの設計思想の根本には、物事の本質を見極めたい、という欲求を感じます。
私がMacに初めて触れた当時から、Apple製品にはほとんど説明書らしきものが付いてきませんでした。*1説明が要らない、という事は、物事の本質に近いところにそれが存在している、ということになります。

「伝える」とは

とても本質的な、人とモノのコミュニケーションの話をしましょう。
例えば、手に持ったグラスを落とせば、それは割れます。我々は行動に移さなくとも結果を知っているため、落とさないように気をつけます。実際にやってみる前からなぜ、地面に落とせば割れるということが、私たちには分かるのでしょう?

ひとつには、我々は常に重力を感じながら生きているため、重さのあるものは手を離せば落ちるということを、感覚的に知っているからです。またグラスを持った感触と過去の経験を比較することで、これはガラスだ、割れやすいのだ、という情報を事前に知っているというのも、その理由です。

しかし、この情報にはランクがあります。
重力の場合、誰かから教えてもらわずとも、人生の早い段階の経験で身に付けることが出来ますが、ガラスは割れる、という情報は、各々の知識に頼らねばなりません。ガラスが割れることを知らない小さな子供は、時に手を離してしまうこともあるわけです。
しかし、その「割れる」ということが、ほとんどの人が成長の過程で学べる知識であるのなら、それはまた「落ちる」と同じように、言葉で書かずとも伝えることができる情報と成りうるわけです。

グラスをガラス製にすることで、ユーザーの行動を、ある程度コントロールできるのです。
これこそが、物事の本質を探し当て、それを(デザインを含めた)言葉ではない何かで伝える、ということです。
Macが広めたデスクトップという概念、あれはまさに、この力を利用しています。*2

伝わらないものと伝わるもの

ごくまれに遭遇する、押すのか引くのかを間違えてしまうようなドアーは、この部分の思考がなされていないのですね。他にも、一般的に「おしゃれ」「デザイン的」と呼ばれている道具の中にも、意外と多くのおかしなものが見つかります。持つ方向をいつも間違えてしまうキッチン用具、急いでいるときに限ってサイズや種類を間違えてしまう工具。みなさんの身近にもあるはずです。

そうそう、すこし本筋からは外れますが、「画面はハメコミ合成です」という但し書きを必要としないような、もっと洗練されたコミュニケーションの方法は、存在しないのでしょうか?
また、Macとよく似た見た目の某ソフトウェア会社が作った某OS、誰かに尋ねないで辿りつけた機能って、いくつくらいありましたか?

気をつけて観察してみると、素晴らしいものは意外と少ないのです。
しかし本当に素晴らしいモノと出会った時の、自分だけが発見できたような感覚は、何ものにも代えがたい喜びです。

  • アイクラー・ホームズの家
  • ディーター・ラムスによるブラウンの電化製品
  • ポルシェのデザイン
  • 良くできた和食器、日本の古い建築物
  • ポール・ランドに依頼したNeXTのロゴデザイン

ジョブズが好きだったこれらのデザインは、すべてこの「説明しなくとも伝わる」という要点を満たしています。
ここで、『スティーブ・ジョブズ Ⅰ』第12章から印象的な部分を引用しておきます。

「洗練を突きつめると簡潔になる」
デザインをシンプルにする根本は、製品を直感的に使いやすくすることだとジョブズは考えた。両者は必ずしも両立しない。デザインは流麗でシンプルなのに、使うのが怖く感じたり、なにをどうしたらいいのかよくわからなかったりという場合もある(中略)
「我々がデザインの主眼に据えていますのは、“直感的に物事がわかるようにする”です」


iPhone 5s & 5c

最後に『スティーブ・ジョブズ Ⅰ & Ⅱ』と『あるヨギの自叙伝』を読んで感じたことを踏まえ、発売されたばかりの新しいiPhoneの感想をすこし。今まで書いてきたこの生地のテーマのひとつ「シンプルであること」という観点から、今回のiPhoneを捉えた場合、ちょっと気になることがあります。

先のエントリーにも挙げましたが、ジョナサン・アイブが説明するiPhone5cの説明ビデオと、近々アップデートされるiOS7の画面をご覧になりましたか?

私が感じたところでは、現時点でのジョナサン・アイブは、ハードウェアとソフトウェアのシームレスな融合という意味では、プラスチック製の5cの方が完成形だと言っているように見えます。
主に見た目の話になるのですが、iOS7のフラットデザインは、完全にiPhone5cありきです。もし、画面の中のフラットデザインのアイコンに、実際触れることができたとしたら、それはきっとプラスチックの感触に近いでしょう。
ビデオで説明するジョニーの情熱も半端ない。もしかして、今までで一番力が入っているのではないでしょうか。

片やジョブズが作り上げたiPhoneの延長線上にあるのは、アルミニウム製の5sなのですが、こちらはハードウェア的な技術改良にとどまっています。概念を根底からくつがえすような変化はない。このことから今のジョニーは、プラスチックの方が本質的にクールだと考えているようにも受け取れます。

ジョブズは製品のラインナップが複雑になることを、良しとしませんでした。
本命が5cなのだとしたら、5cに統一する選択もあったと思うのですが、ポリカーボネートからアルミに進化したiPhoneの素材を元に戻すことは、市場に退化とも受け取られかねない。そこで両方を残した製品ラインナップにしたわけです。

見た目以外の両者の差が分かりにくい上に、種類は増えて複雑になってしまいましたが、それらを必然だと思ってもらうための努力として、先のビデオのジョニーの一生懸命さがあるわけです。

ここからのApple

……あれ?説明を必要としないのが、Appleの持ち味ではなかったのですか?
今回、Appleという企業が下したその決断に、ほんのわずかですが、ブレを感じてしまいました。Apple自身の不安さが現れてしまっています。

私自身、すでにショップに行って、5sの方を予約してしまったのですが、ひとつずつ検証していくと、このような結果になる。……では、5cにすれば良かったのか。
前回のエントリーの主張を繰り返すことになりますが、選択肢が増えることは必ずしも幸せなことではなく、このように決断の迷いを生むことにもなります。
……私の言っていることが、正しいのかそうでないのか、先のことは誰にも分からない……これからも、Appleは今までのように私たちをワクワクさせてくれるのでしょうか。
私はミーハーなAppleファンだから、いつまでもAppleには革新的な企業であって欲しい。


最後は、あの" Think different(シンク・ディファレント)" キャンペーンの有名なCM「クレイジーな人たちがいる」の映像のリンクを貼っておきましょう。
このCM、アインシュタインやディランやジョン・レノンガンジーバックミンスター・フラーは登場させても、フォン・ノイマンマイケル・ジャクソンやカール・ルイスを登場させてない、ってとこにジョブズの強い意思を感じます。


Appleの伝説のCM『クレイジーな人達がいる』 - YouTube


Steve Jobs Ⅰ & Ⅱ|ウォルター・アイザックソン - つるつるの手帖

あるヨギの自叙伝

あるヨギの自叙伝

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II

*1:汎用的な設定に合わせる必要のあるネットワーク関係の機器を除く

*2:この「へ理屈」は極論ですね(笑)使い手の行動を制限する目的で、ガラス製のコップが開発されたわけではありませんから。

Steve Jobs Ⅰ & Ⅱ|ウォルター・アイザックソン

f:id:mizzan72:20130915055218j:plain
スティーブ・ジョブズ I
スティーブ・ジョブズ II
※ 今回のエントリーは、以前書いていた「鶴の手帖」というブログの2013年9月16日の内容に、若干の修正を加えて転載した記事となります。

はじめに

ジョブズの伝記を読んだ感想です。かなり長文になってしまいました。

途中、関連する動画などもいくつか挟んでいます。
ちょっと興味があるから読んでやろう、と思われた方は、お時間のあるときにでも改めてコンピュータの前に座り直し、お好きな飲み物でも用意して読み始めてみてください。

2013年9月10日、新しいiPhone「5s」と「5c」の2種類が発表されました(今回の記事は、2013年9月16日に書いたエントリーの再掲載記事であるため、古い情報ですみません)
最近のAppleの新製品は、事前にネットで写真や情報が出回ってしまうため、特に驚きはありませんでしたが、なんだか肩透かしを食らった印象は否めません。
そのあたりのニュースにも絡めて、次のエントリーでもスティーブ・ジョブズについて書きました。iPhoneに感じたモヤモヤについても、次の記事の最後のほうで触れてみました。

ジョブズの公式伝記

20年ほど前からのMacintoshユーザー、アップル製品のファンです。
先日、ウォルター・アイザックソンの「Steve Jobs Ⅰ&Ⅱ」を読み終えました。ぼくには、旬の話題には素直に乗りきれない「へそ曲がり」なところがあるので、2年前ジョブズが亡くなったとき、あの熱狂の余韻の中で、本書を読む気にはなれませんでした。しかし、時間が経ったからか気分も落ち着き、新しいiPhoneが発表されたこのタイミングに導かれるように、今回この公式の伝記を手に取ったわけです。

読み進めるに従い、新製品発表のプレゼンテーションを待ち望んだ当時の気分が思い出されます。散々語られ尽くした感のあるエピソードも、別の切り口から書かれていたりしてなかなか楽しめました。
ただ下巻の後半、病に弱っていく描写は読むのがとても辛かったので、その部分は噛みしめるようにゆっくりと進めました。

読み終わったとき、次のふたつが印象に残りました。

  • シンプルであること(上巻 第12章「デザイン|真のアーティストはシンプルに」より)
  • 旅こそが報い(上巻 第13章「マックの開発力|旅こそが報い」より)

このふたつについて、私がMacと出会ったころの個人的な経験なども織り交ぜつつ、考えたことを書いてみます。「現実歪曲空間」の話しなどは、他の文章にも多く書かれていると思うので、今回は割愛。

また、ジョブズが唯一iPadに入れていたという「あるヨギの自叙伝」も続けて読んでみたので、次のエントリーでは、そこからジョブズが何を読み取っていたのかも、考えてみます。

Macintoshとの出会い

f:id:mizzan72:20150314061629j:plain
写真:Macintosh ColorClassicⅡ

ぼくとMacの出会い。
初めて触ったのは、20歳のころアルバイトしていたデザイン事務所のMac。確かⅡciで、1992年のことでした。
その後、初めて自分で買ったMacintoshは、カラークラシックⅡ(上記写真)です。これはたぶん1994年。その頃すでにのAppleジョブズは居ませんでしたが、手に入れたこのマシンには、まだ辛うじてコンパクト、単体で完結していた時代のMacの香りが残っていました。

キーボード上の電源スイッチを押すと、「ポーン」という起動音に続いて、画面に「ハッピーマック」が現れる……はじめて電源を入れたときの興奮を、昨日のことのように思い出します。興奮なんて大げさに聞こえますが、アップル製品に触れたことのある人になら、伝わるんじゃないのかな。ついでに、初めてサッドマックを見た時の戦慄も思い出しました!また、物理的なスイッチではなく画面の中のメニューから電源を切る、ってのにも、最初ものすごく驚きました。
*1
しかし、後に発売されたWindows95に触れた時には、全くこういう興奮は感じませんでした。あたかも現実と画面の中とを行き来しているかのような不思議な感覚は、ハードウェアとソフトウェアが対になって提供されている製品だからこそ、味わえるものです。

この「興奮」を人々に届けることこそAppleの任務なのだ、という使命感が、ジョブズには非常に強かったのでしょう。伝記には、これでもかと製品の仕様にこだわる彼の様子が描かれています。

この感覚は、未だにApple特有の体験です。今回発表されたiPhone5c、プラスチックの筐体を持つこのiPhoneを説明する映像の中で、デザイナーのジョナサン・アイブが、このハードウェアとソフトウェアの調和について語っていました。(2015年3月現在、この動画は見つかりませんでした)

シンプルであること

伝記前半には、若いころのジョブズはとにかく臭かった、と何度も書かれています。完全な菜食主義者は、シャワーやデオドラント製品を使わなくても身体は臭わないはずだ、との信念によるものだとか。もちろん現実には臭うわけですが、自分が必要ないと思うことは一切しない。ここにジョブズ流の考え方、絞りこまれたシンプルさが垣間見えます。
シャワーを浴びなかったり、デオドラント製品を使わなかった真の理由は本書には書かれていませんでしたが、当時のジョブズには、日常生活をシンプルにしたい、選択肢を減らしたい、との想いがあったのではないでしょうか。

我々の日常生活は思っているよりも意外と複雑にできていて、置かれた場面場面で様々な選択を迫られます。レストランのメニュー、テレビのチャンネル、どこかに遊びに行く場合だって、いくつもの候補の中から選ぶはずです。
置かれた状況に応じて好きなものが選べるわけですから、それらは一見、手放しで素晴らしいことのように思えます。しかし選択が増えるということは、どれにしようか判断するアクションが一つ増えることでもあります。また選んだ後も、その判断が正しかったのか思い悩むことになる。
選択の自由とは、時にこういう窮屈さを生み出すことにもなります。

数ある中から特定のデオドラント製品を選ぶというアクションを切り捨てるためには、菜食主義を貫いて臭い自体が発生しないようにすればよい、というわけです。加えて、忙しい若者にとっては、毎日決まった時間にシャワーを浴びることも煩わしいものです。
言ってみれば、わがままな人間の勝手な解釈ではあるのですが、ジョブズの場合おもしろいのは、自分が作り上げたこの完璧な信念の前では、実際に身体が臭うかどうかなどは、まったく問題にならないということです。

アップル製品におけるシンプルさは時にやり過ぎにも思えますが、それらは全てこうしたジョブズ自身の信念から生み出されたのだと思います。伝記にも、AppleⅡの拡張性を切り捨てようとするジョブズと、必要だと主張するウォズニアックとの対立が書かれています。
マウスのボタンはひとつにする、キーボードに矢印キーを設けない……等々。
また、復帰後に製品ラインを絞り込んだのも、iPodからON-OFFスイッチを省いたのも、iPodshuffleで曲を選べないようにしたのも、iPhoneの電池を取り外し出来ない仕様にしたのも、すべてこのシンプルさを追い求めることが原点なのだと思います。

くわえて、ジョブズの言う「シンプルである」という意味をもう少し掘り下げてみると、それはただ単に簡単、単純にするということだけでもない。
これは「デザイン」という言葉の定義でもあるのですが、目の前にあることの本質を見極め、装飾的な部分はすべて切り捨て、これだけは絶対に外せないという最小限の要素のみで、物事を再構築するという行為すべてを指しているのです。

つまりシンプルさの追求とは、創造、造形のプロセスである以前に「これは何か?何のためにあるのか?」という、長い時間をかけた哲学的な思考の成果であるわけです。

Pixarトイ・ストーリー

本質を追求することに関して、伝記にも面白いエピソードが書かれていました。ジョブズが作ったもう一つの企業、Pixarが手がけた最初の長編アニメーション『トイ・ストーリー』についてです。引用します。

モノが感情を持つなら、その本質を全うしたいという想いが基本にあるはずだ。たとえばグラスの目的は「水を保持する」こと。だから、水がいっぱい入っていれば幸せだし、空なら悲しくなるはずだ(中略)そしておもちゃの場合、その目的は子どもに遊んでもらうことであり、彼らがもっとも恐れるのは捨てられたり、新しいおもちゃに取って代わられたりすることだ。- 上巻 第21章 (p.434-435)

これまでにも、おもちゃを主人公にした物語は沢山あったと思いますが、おもちゃ側の立場に立って、自身の存在意義を物語の原点に据えたファンタジーなど、それまでにあったでしょうか?
トイ・ストーリーが面白いのは、ひとつに、おもちゃが持つ目的を物語の軸にしたことにあったと思います。
これもまた、物事の本質を見極めることを目的とした、ジョブズらしい仕事だと思います。

Apple製品が持つ「シンプルさ」の移り変わり

また、ジョブズ復帰直後のAppleの製品を現代の視点で見返すと、シンプルではあるけれど、今のシンプルさとは目的がちょっと違っていた気がします。まだ一般的に身近なものとは言えなかったコンピュータを、まずは一般のユーザーに使ってもらうための工夫が随所に見られます。
つまり初めてコンピュータを手にした利用者に対する動機づけ、啓蒙的な役割を、色や形に持たせていたと思うのです。

ジョブズ復帰直後の製品と言えば、例えばiMac。伝記には、デザイナー、ジョナサン・アイブが、iMacの上部にハンドルを取り付けることを提案した際の考え方が書かれています。

あのころ、ふつうの人にとってはテクノロジーはちょっと怖いものでした。怖いと思えば触ろうとしないのが当たり前です(中略)それならハンドルをつけたらどうだろうか―そう思ったわけです。そうすれば、人間との関係が結べる製品になるのではないか。直感的にわかって親しみやすい。触っていいんだよと語りかけるものになる。人の意思に従う姿勢が感じられる存在になるわけです。- 下巻 第26章 (p.105)

また、このハンドルについては、当時ジョナサン・アイブに直接インタビューをされた藤崎圭一郎さんのブログ「ココカラハジマル」に、詳しい説明があります。iMacのハンドルのように、デザインの力で人を誘導する試みについて書かれた部分を、少し引用させていただきます。

建築ではこうした手法は古くから常套手段である。たとえば、階段やスロープ。それは登り降りするためだけの設備ではない。階段は動線上の次の空間へ人を誘っている。窓も単に採光や換気のための設備ではない。人の視線を外部や内部に誘う仕掛けでもある。
茶室へ至る飛び石は、人を茶室の方向へ誘うだけでなく、一定の歩幅で歩くことを強いることで、主人の歩くリズムと客人のそれを同調させる装置となっている。

デザイン=物事の本質をあらわにする行為には、本来このようなパワーが秘められています。
しかし、一般的な議論の中で「デザインする」という行為が取り上げられる場合、未だに装飾的、アーティスティックな意味でしかデザインが話題にならないことを残念に思います。
変わっているだけのもの、奇抜なものは、ただそれだけあっても、決して「デザインが優れている」とは呼べないのです。

……時代は移り、テクノロジーに対する人々の恐れも、段々と和らぎました。
過去から順に、現代までのApple製品を辿ってくると、シンプルにする、モノの本質を追求する、という側面がだんだんと強くなり、ユーザーを導こうとする作り手側の主義主張は、逆に削られていったように見えます。コンピュータという製品が、以前よりも我々の日常で身近なモノになったことで、まずは使ってもらうという時代が終わり、「それを使って何をするのか」という本来の目的を、より深く掘り下げて提供できるようになったためでしょう。

旅こそが報い

有名な、スタンフォード大学卒業式でのジョブズのスピーチを聴いてみると、ジョブズの意識が日常どの部分に向いていたのかが見えてきます。
あわせて、こちらもジョブズの人となりが垣間見える内容だと思いますので、ジョブズが亡くなった後の、ジョナサン・アイブによる追悼のスピーチも紹介します。


スティーブ・ジョブス スタンフォード大学卒業式辞 日本語字幕版 - YouTube


ジョナサン・アイブのジョブズ追悼スピーチ【字幕付き】/Tribute to Steve Jobs - YouTube

これらのスピーチや伝記に書かれた様々な言動からも分かるように、ジョブズは、妥協の無い最高の製品を作ることを、仕事の目的としていました。
反面、自身の生き方においては、結果を追い求めることよりも、そこに行くまでの過程そのものを楽しんでいたように見えます。

結果的にジョブズは人生の早い段階でお金持ちになったため、メルセデスの2シーターやBMWのバイクにも乗っていたそうですが、それ以外の好みは極めて質素だったとされています。言動を追ってみても、金銭や名声を目的としていた印象は受けません。

没後、自宅に泥棒が入ったニュースがありましたが、確か大変地味な外観の建物だったように記憶しています。また伝記を読む限り、前半10-20代前半の貧乏な時代も、行動の動機に、目的としての金銭はなかったようです。先のスタンフォード大学のスピーチの中でも、教会に食べ物をもらいに行っていた当時を「そんな日々がたまらなく好きだった」と言っています。これが、ジョブズなのでしょう。

対して我々は結果に意識が向きがちですが、やっぱりジョブズと同じく、振り返ってみればプロセスこそが一番楽しかったという経験を、誰もが持っているはずです。間近の旅行を思い出してみても、一番楽しかったのは、計画を立てているときと、行きの道中ではありませんでしたか?
まさにこれが「旅こそが報い」という意味であり、途中の経験や苦労こそ、改めて噛みしめたり楽しんだりする価値があることなのです。

「旅こそが報い」という言葉について書かれた部分を、伝記から引用します。当時、Macの開発チームを率いていたジョブズが好んでいた言葉だそうです。

次は禅の公案のような一言、「旅こそが報い」だった。マックチームというのは至高の任務を与えられた特任部隊なのだとジョブズはよく語っていた。いつの日かふり返れば、つらかったことなど忘れてしまうか笑い飛ばすかして、人生最高の日々だった、魔法のような日々だったと思う―。-上巻 第13章 (p.231)

伝記上巻のクライマックスは、やはりMacintoshの開発です。最高のメンバーで構成されたMacの開発部隊は、屋上に海賊旗を掲げていたとか。
これは、反骨精神を胸に最高の製品を作ることを目的とし、さらに日々を楽しむことにも意識をフォーカスさせた、他に類を見ないほど創造的なチームの記録です。

ジョブズ追放とApple復帰

Macintosh開発の後、ジョブズは自らが作ったAppleを追われます。彼の独善的な言動が周囲との軋轢を生み出したからです。
しかしその後のAppleは混迷して、かつての革新的なイメージは徐々に薄れていきました。私がMacと出会ったのはちょうどこの時期です。当時、業界で力を失っていく姿が、私にも見て取れました。MacOSを他社にライセンスした互換機が発売された時には、心から残念に思ったものです。


そんな中、1996年にジョブズが復帰します。
Appleに戻ったあと発表された新製品はどれも話題になりましたが、その快進撃を見ていた当時、ジョブズは昔とは変わってずいぶん丸くなったようだとの見方もありました。しかし今回、伝記下巻を読んでみると、どうやらそうでもなかったようですね。
ただ、私の言葉では上手く表現できないですが、確かに変わった部分もあったのでしょう。ジョブズのスピーチでも触れられていますが、彼は失敗から学んだのです。
これは、他の成功者へのインタビューからもよく聞く意見ですが、失敗を回避するのではなく、失敗から学ぶことこそ、物事を前に進める唯一の道なのでしょう。

→ 次のエントリーは、ジョブズの愛読書「あるヨギの自叙伝」を取り上げて、彼がなぜこの本を繰り返し読んだのかを考えてみます。

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II

*1:のちに電源スイッチを押すと、電源オフを含めた動作を選択するダイアログが出るようになったが、この頃はまだスイッチを押しても何も出なかったと思う