つるつるの手帖

なにかおもしろいことないかなー

人間の土地|サン=テグジュペリ

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※ 今回のエントリーは、以前書いていた「鶴の手帖」というブログの2014年1月20日の内容に、若干の修正を加えて転載した記事となります。

人間の土地|堀口大學

堀口大學による訳は、1955年(昭和30年)刊とのことなので、言い回しは古臭く、現代の翻訳と比べれば、読みにくいうちに入るだろう。
しかしその文章は、限りなく美しいと思う。あえて読みにくくすることで、上澄みだけをかすめ盗ろうとする者たちから、真実を守っているようにも思える。

ふたつの視点

池波正太郎さんのエッセイの中にその名前を見つけて、サン=テグジュペリの「人間の土地」を読んだ。
サン=テグジュペリは操縦士を勤める傍ら小説やエッセイを書いた。「人間の土地」は、郵便輸送パイロットとしての経験を元に書かれたものである。
このエッセイが面白いのは、自然を尊ぶ作家としての情緒的な視点と、文明や機械に心躍らせる操縦士としての視点、その両方が対立することなく手を取り合っているところだ。
ときに自然と文明とは決して交われないものとして語られることもあるが、作者はそのどちらへも分け隔てなく愛情を注いでいる。

宮崎駿監督への影響

ところで、スタジオジブリ宮崎駿さんはサン=テグジュペリに大きな影響を受けているそうだ。監督もひとつには、自然と文明のあいだで絶妙にバランスをとる、作者個人の魅力に惹かれたのではないか。
「人間の土地」新装版で、宮崎監督は表紙を手がけており、あとがきには「空のいけにえ」と題した文も寄せている。
なるほど、自然におののきながらもその神秘性に惹かれ、文明の持つ残酷な一面を否定しつつも、機械の魅力の虜になってしまう。これは、サン=テグジュペリ、宮崎作品に共通するテーマなのかも知れない。
例えば「風の谷のナウシカ」では、幻想的なテクスチャを持つ雲の風景の中を、精巧なディティールで造られた機械であるメーヴェが飛んでいる。

ぼくは「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」は大好きだが、残念ながら「紅の豚」も「風立ちぬ」も観ていないので、「人間の土地」が宮崎監督の仕事に与えた影響ついて、残念ながらこれ以上書くことはできない。

美しい言葉たち

またこの本には、すこし青臭いが、清潔で、他にも引用されるような美しい言葉が多い。

  • 経験はぼくらに教えてくれる、愛するということは、おたがいに顔をみつめあることではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだと(p.243)
  • 真の贅沢というものは、ただ一つしかない、それは人間関係の贅沢だ(p.45)

ぼくが気に入っているのは、自然を描写した部分だ。すこし長いが、書き出してみる。

自然の描写、詩的な表現

空の上は冷たく、持続する発動機の音だけが聞こえる世界。
僚友メルモスが飛行中、竜巻に遭遇する場面だ。

p.29「定期航空」
そこには竜巻がいくつとなく集まって、突っ立っていた。一見それらは寺院の黒い円柱のように不動のものに見えた。それら竜巻の円柱は、先端にふくらみを見せて、暗く低い暴風雨の空をささえていた、そのくせ、空の隙間からは、光の裾が落ちてきて、耿々たる満月が、それら円柱のあいだから、冷たい海の敷石の上に照りわたっていた。そしてメルモスは、これら無人の廃墟の間を横切って、光の瀬戸から瀬戸へとはすかいに、海が猛り狂いつつ昇天しているに相違のない巨大な竜巻の円柱を回避しながら、自分の路を飛びつづけた。月光の滝津瀬に沿うて、前後四時間の飛行ののち、彼はようやくその竜巻の寺院の出口へ出ることができた。しかも、その光景が、いかにも圧倒的なものだったので、黒鳴戸(ポトオノアール)から開放されたときになって、はじめて、メルモスは気づいた、自分が恐怖感はもたずにしまったことに。

……ものごとをできるだけ美しく表現しようとする意図が感じられる。自然の恐ろしさを、あえて美しい比喩を使って表現することで、最後の一文「〜はじめて、メルモスは気づいた、自分が恐怖感はもたずにしまったことに」が生きてくる。
美しい表現はまた、操縦士の空における孤独さも強調する。

もうひとつ。出発前の準備をする場面。

p.115「砂漠で」
〜さて、ぼくは身支度を始める。信号燈、高度計、鉛筆を腰のベルトに結びつける。今夜、ぼくの通信士になってくれるネリの所へ行ってみる。彼もぼくがしたように髭を剃っている。ぼくから声をかけてみる、<元気かい?> さしあたり元気が当然なのだ。なにしろこの準備作業は、飛行のいちばん楽な部分だから。ところがぼくは、ジーッという音を聞きつける。ぼくのランプに蜉蝣(かげろう)が突き当たったのだ。なぜというわけもなしに、この蜉蝣がぼくの心臓をつねる。

「ぼくの心臓をつねる」操縦士としての日常に、普段は表に出てこないが、小さな不安が常に存在することがわかる文章だ。不安な気持ちのサイズ感が「つねる」という言葉で的確に表現されている。

■ 技術、機械、文明を眺める視点

次に、サン=テグジュペリが文明と機械、そしてそれらを使いこなす側の人間について述べている部分を書き出してみよう。本質を言い当てていると思う。

(p.66)「飛行機」
現代技術のあまりにも急速な進歩に恐れをいだく人々は、目的と手段とを混同しているようにぼくには思われる(中略)飛行機も目的ではなくて一個の道具なのだ。鋤(すき)のように一個の道具なのだ。

(p.69)
〜機械でさえも完成すればするほど、その役割が主になって、機械それ自身は目立たなくなってくるのがつねだ(中略)外見的には、その翼を、それが目立たなくなるまで、機体についている翼があるという感じがなくなり、最後には完全に咲ききったその形が、母岩から抜け出して、一種奇跡的な天衣無縫の作品として、しかも一編の詩品のようなすばらしい質をそなえて現れるときまで、この調和を軽快にし、目立たなくし、みがきあげるにはほかならないと思われる。完成は付加すべき何ものもなくなったときではなく、除去すべき何ものもなくなったときに達せられるように思われる。発達の極地に達したら、機械は目立たなくなってくるだろう。

機械を使うことそのものを目的とするのではなく、あくまで道具として使いこなすことが大切であり、機械そのものや、機械を使っているという感覚はむしろ目立たない方が良い、と言っている。
目的を達成するために、ただそこにあるべくしてある。デザインの本質だ。

文明を否定するのではなく、また手放しで絶賛するのでもない。目まぐるしく進化するスピードにも負けていない。
現代では、こういった考え方もひとつの主流だが、この文章が書かれたのは1939年(昭和14年)である。かなりの先見性と言えるのではないか。文学と科学の境界に立つ、サン=テグジュペリの本領発揮といったところだろう。
すこし話は逸れるが、Appleスティーブ・ジョブズも、自分が文系とテクノロジーの境界に立っている意識が強かったようだ。
ベクトルが真逆のふたつの意識が共存する人物は魅力的だ。mizzan72.hatenablog.com


人間

先に書いたように、本書には美しい言葉がたくさん見つけられる。できれば原文をあたりたいのだが、それは外国語ができないぼくには叶わないので、サン=テグジュペリがどんな文体なのかは想像するしかない。
しかし日本語版に限って言えば、堀口大學訳の素晴らしさもその清潔さの追い風になっていると思う。

最後に、いちばん好きだった一文を書き出してみる。

(P.252)「人間」
死というものは、それが正しい秩序の中にある場合、きわめてやさしいものだ。たとえば、プロヴァンスの老いたる農夫が、自分の世代の終わりに際して、自分の持ち分の山羊とオリーヴの木を、息子たちに与えて、彼らもまた彼らの順番に、彼らの息子の息子たちに分け与えさせようとする、あのときのようなものだ。農夫の家系にあっては、人は半分しか死なぬ。おのおのの一生は、自分の番が来ると、莢(さや)のように割れて、種を伝える。

親から子へ。時間は流れる

本書は、飛行士が書いたエッセイという枠を越えて迫ってくる。
ぼくは40代になって、それまで自分自身に向いていた関心が、自分の親や子どもたちに移っていった。自我を持つひとりとして今ここに存在するのと同時に、大きな時間の流れの一部であることがだんだんとわかってきた。これは最近の大きな変化だ。

ある日道端に小さな草花を見つけたときの感情の動き、自分が偶然発見したと思っていた日常における生きるための創意工夫。
そういうまったくぼく個人の問題だと思っていたことが、じつは親から引き継いだ感情であったり、子供たちへ分け与えるべき知恵の連鎖だったりすることに気づいたのだ。

この感覚は、悪くない。
自分のもののようで、自分のものではない感覚、ぼくの半分は過去と未来の時間で出来ていたのだ。「死というものは〜」ではじまる、プロヴァンスの農夫について書かれた先の文章を読んでいて、こんなことを考えた。

自分の中の自分でない半分に気づいたその時、急に重くなった責任と、なぜか拍子抜けした感覚が、みなさんにうまく伝わっただろうか。


最後に。
あえて今回は取り上げなかったが、アンデスの冬山から奇跡の生還を遂げた僚友ギヨメに、語り掛けるように書かれた章は必読だ。
ぼくは三度読み返して、三度とも泣いてしまった。

人間の土地 (新潮文庫)

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夜間飛行 (新潮文庫)

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星の王子さま―オリジナル版

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