つるつるの手帖

なにかおもしろいことないかなー

仕事には「作家性」を


↑ Macintosh128Kの筐体の内側に彫られた開発チームメンバーの署名。
中央上部1/4くらいの位置に「スティーブ(ン)・ジョブズ」の名前も見える。

「作家性」とは

ひょっとして世に存在するありとあらゆる仕事には、すべて作家性を持たせられるんじゃないか……。
近ごろこんなことを考えています。

まず、「◯◯作家」という肩書には、みなさんどのような感想を持つのだろう。「陶芸作家」「工芸作家」「絵本作家」などと紹介されたら、ぼくなどはたちまちその人に憧れてしまうような気がするが、その響きに高慢さを感じる方もいるのかも知れない。若い世代には、古臭く聞こえるのだろうか。

対して「◯◯アーティスト」などという肩書を聞くと、背筋がぞぞぞっとするし、口にするのもためらってしまう。「◯◯作家」と比べたら、なにか押し付けがましさを感じはしないだろうか。ひょっとしたら、若い人にはこちらの方が嫌悪感なく響くのか?

このへんの話しは、時代の空気感や経済と裏側で結びついていたりしてたいへん面白いのだが、本記事の趣旨とは違うので、今回はこの辺にしておく。


ただ、書き進める上で「作家性」という言葉を使う以上、言葉の定義をはっきりさせておかないと話が進まない。まずは参考にできる文章をと思い、ネットで「作家性」という言葉を探しはじめたら、なんだか余計に判らなくなってしまった。ぼんやりとその意味は理解できるのだが、言葉で上手く言い表せない。
そこでまず「作家」という言葉に立ち返ってみると、辞書にはこうある。

【作家】
① 文章を書くことを職業とする人。特に小説家。
② 美術工芸など、個人の表現としての芸術作品の制作者。


最初に挙げたいくつかの「作家」の例は②にあたる。
ここから「作家性」を考えてみると、各々の人間が持つ「その人っぽさ」ということだろうか。手グセ、人間臭さ、ちょっと堅い表現では思想、人間性、いろんな言い方はあるだろうが、その人となりが作品に残っているかどうかがミソか。
また、①に小説家とある。
ためしに何かしらの小説を読んでみると、確かに文章技術の巧拙や扱うテーマの好みなどを省いていっても、ほとんどの作品にははっきりと作家性を感じる。作者の個性や姿勢が、どの作品にも投影されているということだ。
ただしノン・フィクションにおいては、作家性を意識的に盛り込んだものも、逆にあえてそれを殺したものもあるような気がする。同じ作者によるものでも、扱うテーマによって使い分けていたりする。
また工芸品においても、作者名が重視される場合と、作家自体にはスポットが当たらない場合がある。

「作家性」とは、そもそも作り手が意識的に作品にそれを残すものなのか、鑑賞する側が完成形の中にはじめて発見するものであるのか。文章や絵画では作品に署名することもあるので、この部分だけ取り上げてみると、作家性とは作り手が意識することではじめて、作品に盛り込まれるようにも思える。

「残す」のか「残る」のか、作品に自分らしさを込めた意思の部分はなかなか興味深いが、ひとまずここでは言葉の意味を次のように定義して、記事を進めようと思う。

「完成」した作品(製品・商品)そのものから、他との違いを明確に区別する要素が伝わってくること

ここで重要なのは、まず作品「そのもの」から、という部分だ。最近話題の偽ベートーベン事件のように、作品以外の要素からその人物らしさが表れる場合は、これに当たらない。
もう一点、定義の中の、他と区別する要素が必ず「ヒト(個人)」に帰属する、ということも大切だ。先の【作家】の項目でも、①と②いずれもが「ヒト」を指している。

すべてのものに「作家性」を盛り込めば良いわけでもない

すこし違和感はあるが、まずは世の中にあるモノ(製品・商品)、コト(出来事・イベント)、そのすべてを「作品・製品」と呼ぶことにしよう。それら作品、製品の中には、「作家性」がまったく盛り込まれない、もしくはほとんど認められないものも多い。

例えば絵画やイラストレーションには、小説と同じようにはっきりとした作家性が認められることが多いが、写真の場合は、先のノン・フィクションのように使い分けがありそうだ。
また、グラフィックデザインではどうだろう。もちろん出来上がった作品から意図や信念は感じるのだが、それは作家性とはちょっと違う。主役である「モノ・コト」の本質を他者に伝えることがその目的であるわけだから、デザイン自体には、独立した主義主張の類は持たせないことがほとんどだと思う。
もし表現の方に独自の作家性のような個性を感じたとしたら、デザイナーがかなり著名でその表現方法自体を目的とする場合か、意図的に当てはめた奇抜な表現がたまたま成功しているか、もしくはデザインの目的を取り違えた自己満足の稚拙な表現であるかのいずれかだろう。
ここで表現されるべきものは、主役である「モノ・コト」の個性であって、各々のデザイナーが持つ「作家性」ではないのだ。

また、まったく「作家性」を必要としない場合だってある。
リビングに好きな絵を飾っている人も多いと思うが、もし壁紙から天井、床まで部屋全体が、岡本太郎草間彌生の絵だったとしたら?
いくらその作品が好きな人でも、日常的に彼らの世界観の中の住人として生活を送ったとしたら、精神に変調をきたしてしまうのではないか。
これは極めて個人的な意見だが、壁紙は無個性であるべきだ。
この写真↓を見たあなたになら、同意してもらえるだろうか。


工業製品における「作家性」

また、あまりに多くの種類のモノが溢れかえってしまった現代では、工業製品などが持つ個性について「デザイン論」「設計思想」という視点で語られることはあっても、それが「作家性」という言葉で表されることはまずないのではないか。
しかし、すでに現代をしのぐような大量生産大量消費時代であったはずだが、ほんの数十年前の工業製品の中には「作家性」が存在するものがあったように思う。

ホンダのスーパーカブ本田宗一郎という個人の資質と切り離して考えることは難しい。
冒頭に写真を挙げた、初代Macintosh(128K)とスティーブ・ジョブズもまたしかり。製品名の中に、開発者のイニシャルである「M」を織り込んだ、銀塩時代のオリンパスの一眼レフもそれに当たる。
たとえそれらが、彼らを交えた複数の人間の手で生み出されたものだったとしても、これらは、ある特定の個人が持つ性質が、完成品からも伝わってくる製品たちだ。
しかしホンダにしても初代シビックの時代になると、その製品の個性は、個人が、というよりもチームまたは組織として創りあげた色合いが濃くなってくると思う。これもまたiMac、OM-Dしかり。

これは、各々の製品の完成度や素晴らしさとは関係がない。
スーパーカブや128Kが、きわめて個性的な工業製品であるのと同じように、シビックiMacも十二分に個性が強い。いずれも素晴らしい製品だ。
ただ、それらの個性を「作家性」という言葉で表現するのには違和感があるということだ。

仕事に「作家性」を持たせるとは

では、それら工業製品を構成する、一つひとつの「部品」についてはどうだろう。
部品というのは、完成品以上にただの「モノ」「ブツ」であるわけだから、それを製作する立場としては個性など盛り込めるはずはない、と思われる方がほとんどではないか。
まず設計があり、汎用部品の規格があり、製造における寸法公差があり、それら制約の中でのモノづくりだから、この文章で述べている「作家性」などとは無縁の領域だと思われるのが普通である。

だが、ぼくは自らの経験から、この部分にこそ「作家性」を見出したら面白いのではないかと思っている。もちろん部品に名前が記載されるわけではないが、ひとりの作り手として「作家性」を意識しようと思うのだ。これが、この記事のテーマだ。

旋盤加工における「作家性」

ひとつ例を挙げてみよう。
確か、以前読んだ小関智弘さんの「職人学」に、旋盤を例にとったこういう話があった。ひょっとしたら小関さんの他の著作だったかも知れないが、いま手元に本がなく確かめることができないため、内容がうろ覚えで申し訳ない。↓これが旋盤だ。

職人学

職人学

ある旋盤工場で、隣合わせで同じ製品を作っているAさんとBさんがいる。
同じ図面を見て、同じ型の旋盤、同じ刃具を使っているわけだから、出来上がるものも寸分違わないものが出来上がるはずである。
しかし、出来上がった製品を眺めていると、確かに何かが違うのである。見習い程度の眼力では違いが見分けられないのかも知れないが、少なくとも中堅クラスの技能を持つ他者が見た場合、それらは一目瞭然で見分けられるほどの差なのだ。

……たしかこんな文章だった。

具体的になにが違うのか、という部分は、面粗度(めんそど)の違いだったと思う。
ちなみに、面粗度というのは加工面の粗さ(細かさ)のことである。りんごの皮むきを思い浮かべられたい。頭からおしりにかけて包丁で皮をつなげてむく仕組みを90度傾けたものが、そのまま旋盤加工の理屈だ。
皮の間隔を狭くして少しずつ皮をむいていくと、りんごは正円に近付く。しかしこの方法では時間がかかる。逆に一皮のむき幅を大きくし、少ない巻数でおしりにたどり着けば、りんごの形はゴツゴツとしたものとなるが、むき終わるのも速い。

要は、何からなにまで意味なく馬鹿ていねいなBさんの加工品に比べて、Aさんの方は、必要なところだけをしっかりと仕上げ、それ以外のところは仕上がりの細かさよりも加工スピードを優先させた「メリハリ」のある製品であった、という内容だった。


ぼくも以前、仕事で旋盤を挽いていた。
また、図面とにらめっこして刃具を選んで治工具を作り、加工プログラムを組んで実際の加工を行っていたため、この話しはよく分かる。
図面が求める精度を満たすことは、加工屋としては当たり前で、仕事の本当の価値は、そこからさらに踏み込んで何ができるのか、というところにまで気が回っているかどうかなのだ。

巧い加工屋が段取りした工程は、まず加工のスピードが速い。完成品の精度も高く、不良品が発生する率も低い。前述したように、モノを見ただけで他とはっきり区別できる完成度を持っている。
さらにそれに加えて、前工程と後工程の加工のことまで考えられており、それらの内容や素材についての知識も深いため、前後の工程にまで影響を与えていたりする。
「あの人が手がけた品物は、たとえ不良が発生したとしても発見しやすい」とか、「あの人が作ったものの後加工は、なぜか刃物(砥石)の持ちが良い」なんてことが起こりうるのだ。

くり返しになるが、もちろんただの部品に個人の署名があるわけではない。
しかしそれを手にとった瞬間、モノを通して作ったヒトの顔が見える。これは、ある意味「作家性」と呼べるのではないか。
場合によっては、最終的な完成品を眺めたときにも、あるひとつの部品の一部の工程の職人の「作家性」が、おぼろげながら残っていることさえある。
またこれは設計者にも言えることだと思う。使う側のことにまで良く気がまわり、製品加工のこともよく知っている設計者の「作家性」は、完成品からも伝わってくるものだ。
先に挙げたシビックMacintoshは、こういう「作家性」と、個人の知名度が結びついた、幸せな一例だろう。

あらためて、「作家性」とは

……ここまで書いて気づいたことがある。

先の旋盤の例もそうなのだが、作家性とは「わたし」を作品に意識的に盛り込むことではなく、言うなれば「あなた」を意識して作品を作ることなのではないかと。
優秀な職人はつまるところ、自分の前や後に存在する人のことを考えながら仕事をしていたわけだ。さらに優れた人であれば、その気配りの対象を時間軸に沿って拡げ、自らの後継者の仕事についてまで気を回すだろう。これは作業の標準化、というやつだ。

ここは重要な部分だ。自分を表現することにばかり気を取られてしまうと、肝心の伝えるということがおろそかになってしまうということなのかも知れない。ありきたりな表現になってしまうが、自分以外の「誰か」の気持ちに想像を巡らせることができる「思いやり」や「好奇心」といったものを持ち合わせていないと、そもそも「作家性」は発揮できないということだ。
確かに文章でも「読み手を意識する」ことの大切さがよく叫ばれる。ひとりよがりな表現は、相手に伝わらない(おっと!ひとまずこのブログの出来は忘れてもらおう)


この文章を書きはじめる前には、この話しはきっと「承認欲求」とか「個人のアイデンティティ」なんかを絡めた結論に落ち着くんんだろうな、なんて漠然と思っていた。

しかし、ぼくが出会った素晴らしい職人さんたちや、素晴らしい工業製品たちのことを思い浮かべながら書き進めてきた今、ぼくはこう思う。
作家性を発揮している人たちは「認められたい」というような個人的な動機からそうするのではなく、ちょっと大げさに言ってしまうと「人類を前進させるために」その能力を発揮しているのではないのだろうか。つまり彼らは「わたしを見て」と言っていたのではなく、純粋に「世の中が今よりも良くなるといいな」と思っていたのだ。
このように、自分がつまづいた同じ轍を次の世代には踏ませぬよう、また今後自分以外の人間の手によって、より仕事の完成度を高めてもらえるように心を割いて来た人たちが、世の中を前進させてきたのだと思う。
たぶん、わたしが抱いていた「◯◯作家」への憧れも、この誠実さを無意識に感じとっていたからに違いない。またそれ故に、彼らには近寄りがたさを感じていたのかもしれない。
また同時に、はじめの方で挙げた「◯◯アーティスト」を名乗る人たちへの違和感も理解できた。あの違和感は、きっと彼らの言動の多くに「わたしを見て」という、まず自分ありきの姿勢が見え隠れするからだろう。


……とここまで書いてきて、さらに言ってきたことを覆してしまうのだが、この「あなた」という視点あってこその「作家性」という結論が、実はこの文章の中で作家性を必要としない例に挙げたグラフィックデザイナーの視点そのものであることにも気がついてしまった。
まず相手のことを考える、好奇心を持ってことにあたる、社会的な広い視点を持つ、というような点が共通する。
うむむ……。このテーマに「作家性」という言葉を当てはめたことが、そもそもの間違いだったのかもしれないな……。

作家性とは、やっぱり「残す」ものなのだ……が……。

「作家性」という言葉から、いちばん最初に思い浮かべた人がいる。最後に、その熊谷守一の絵を貼っておこう。大好きな絵描きだ。
彼は、文化勲章を辞退したエピソードが有名な純真無垢の代表のような人だが、作品にはちゃんと署名がある。
署名は、作品に「作家性」を込めたことを裏付ける証拠であると思うが、しかしこの署名が、熊谷の承認欲求や自己顕示欲から来ているとは、ぼくには到底思えない。ただし同時に、彼の作品からは人類を前進させるために作品を作ったなどという仰々しさも感じないのだ。

その意図が解らない点が天才所以なのかもしれないが、この熊谷守一の存在が、「作家性」を作品に込めることの意図を見つけられない理由にもなってしまった。


この瞬間にもまた、報酬や名声をその目的とせずとも「作家性」を感じるような仕事に取り組んでいる人々がいる。
この事実は動かせない現実として存在するのだが、なぜそのような行動をとるのか、という理由の部分については、ついに解明できなかった。

しかし、そこが解らないからこそ仕事はおもしろいのだ、とも言える。
わたしは、そんな仕事に気がつく人間になりたいと思う。


熊谷守一―気ままに絵のみち (別冊太陽)

熊谷守一―気ままに絵のみち (別冊太陽)

得手に帆あげて―本田宗一郎の人生哲学

得手に帆あげて―本田宗一郎の人生哲学

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II