つるつるの手帖

なにかおもしろいことないかなー

書くことについて

書くことの効用

40を越えて、ものを書くことを覚えた。それまでなにかを書いたこともなかったし、子供のころ作文でほめられた記憶もない。
しかしそんな僕が、ノートやブログにちょっとした文章を書き始めて二年ほど経つ。なかなか上手くはならないが、それでも続けられているのは、自分のために書いているからだと思う。誰かが読んでくれたらそれはやっぱり嬉しいが、今は読まれることよりも主に自分に向けて書いている。
文章を書くことに、はじめる前には思いもしなかった効果がいくつもあることがわかってきたのだ。

書くことをはじめる

きっかけは二年ほど前、仕事で書いた文章を読み返してみたところ、これがあまりにひどく思えたからだ。「ひどい」という言葉で表すのが適当なのかどうか分からないが、読み返してみたときに、言い回しばかりが気になって内容が素直に頭に入ってこないのだ。
これが例えば週刊誌に載っている林真理子さんの連載などを読んでみると、すらすらと面白いようにその心のうちが伝わってくる。どんな言葉を使いどんな書き方をしているかなど、文章の細かい点はまったく気にならない。
これはなにか、書く技術があるはずだ。それを知りたい。作家のような巧い文章は難しいだろうが、少なくとも読みやすい文は書けるようになりたい。ぼくの悪戦苦闘がはじまった。


書きやすいノート一冊と万年筆一本を書い、すこしずつ書いてみる。……と言っても、今まで日記をつけたことも、手帳に書き留める習慣もなかったわけだから、急に思い立ったところで、別段書くべきことがあるわけでもない。
とある本に、書くためにはまず読むことが必要だ、とあったので、多くの本を読むように自分を習慣づけ、その感想でも書いてみることにした。
本を読んで、気にかかったところに付箋やブックマーカーを付け、後でノートに書き写す。書き写したノートから内容を要約してみて、ちょっとした感想をつける。
これだけのことだが、なかなか充実した時間を味わえるようになった。読むことが書くことにつながり、書くためにまた読む、というサイクルが出来上がった。

元々調子に乗りやすい性格なので、ノートに書いた感想をもとに長めの文章にも挑戦し、読書感想文を書くブログもはじめた。

【BOOK DARTS】ブックダーツ チョコラベル75個ミックス

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ミドリ MDノート<A5> 横罫

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書けないのなら、まずはとにかく読むまでだ

文章の書き方 (岩波新書)

文章の書き方 (岩波新書)

文章のみがき方 (岩波新書)

文章のみがき方 (岩波新書)

しかし、この「読む」「書く」というサイクルが出来上がってからも、自分の書いたものを読み返してみると、なおマズいし、読みにくい。
集中して読めばそれほど悪くないものもあるのだが、すこし書けるようになったことで逆に、難しい表現や大げさな言い回しを使いはじめたことも気になってきた。言葉を自分のものにできていないまま使っている感じがした。
段々とわかってきたが、きちんと書ける人は、まず沢山の良い文章を読んでいる。そこでぼくも今年一年、読むことに集中してみようと思い、文章が巧いと言われている作家のものを探すようになった。

ただ、判断する物差しを持っていない時点で、上手い作品を探すのはなかなか難しい。
近くにいる本好きに聞けば良いのか?絵画や音楽のように文章にだって、良い作品を見極める方法がきっとあるはずだ。

上手い作品の見つけ方

良い方法を思いついた。近くの誰かに聞くのではなく、すでに文章が巧い人の話を聞くことにした。
世の中には、面白い本がたくさんある。巧い文章を書く人もたくさんいる。文章が巧い人は、同じく巧い人が書いたものを好む。美味しいものを作る料理人から、他の上手い料理人の名前を聞きだしてつなげていく「グルメ番組」のあの手が使えそうだ。
たぶん文章術に限らず、これはどんな分野にも言えることなのだ。技術的に一定の水準を越えていないと、読み進める気にさえならないものらしい。巧い人が勧めるものは、やっぱり巧い可能性が高い。作中にその人がオススメする他の作品を見つけ、それも読んでみるようにした。

上に挙げた辰野和夫さんの「文章の書き方」「文章のみがき方」の2冊ほか、小川洋子さん、沢木耕太郎さん、佐藤優さん、村田喜代子さんほか、これは、と感じた作家のエッセイの中に、まだ読んでいない数々の名作を見つけることができた。

また、それらを読んでいると、文章が巧いというのは、技巧的なことだけではないことに気がついた。上手い作品は総じて、物の見方、捉え方が独創的で「その人だから書ける」文章なのである。物事の細部に気がつくような人だからこそ、自分の文章の細かい点にも気を回し、結果的に上手い文章を書くこともできるのだ、とも言える。

井上ひさしさんも言っている。「自分にしか書けないことを誰にでもわかる文章で書く」

先の林真理子さんのコラムも、それにあたる。
例えば話題のラーメン屋かどこかに行って、仕事に厳しいと評判の店主がふと見せた「ズボラ」な仕草が気になって、肝心の味がまったく分からないまま店を出た……なんて、誰でも経験しそうな話でも、ちゃんと読ませる文章を書く(ほんとにこんな話を書いていたかどうかは分かりません。すみません、当てずっぽうの例です……)

物事をステレオタイプ(紋切り型)で捉えず、常に心のうちにある自分なりの感じ方を捕まえようとする。物を書く人のそんな姿勢が好きだ。

自分がどう感じたか……、この「気持ち」というやつは、考えているよりもはるかに厄介な存在で、確かにここ(胸のうち)にあるのに、ただタンポポの綿毛のようにフワフワと漂っていて、すぐに捕まえられそうなのに、気を緩めたら必ずどこかに消えてしまう。

それだから人は、聞き覚えのある「紋切り型」の表現を自分の気持ちだと思い込もうとする。
例えば年の瀬になって、高倉健さん、菅原文太さんの訃報が立て続けに流れたが、これらのニュースを伝える文章に「ひとつの時代が終わった」というような表現がある。
これなどは典型的な紋切り型の表現だと思う。最初に使いはじめた人を除いて、恐らくこの言葉に、それぞれの人間の「自分だけが感じた想い」は、込められていない。しかも、紋切り型の表現には、自分でものを考えることを放棄しつつ、外には頭が良い人間に見せようという、人としての浅ましさを感じる。

「ひとつの時代が終わった」という表現が紋切り型だということについては、ぼく自身、上に挙げた「文章のみがき方」の中にその指摘があったため、気付くことができました。


話がちょっと脱線するが、音楽や絵画、映像作品にもこうしたステレオタイプは良く見かける。
最近あるTVコマーシャルを見ていて、なんだか落ち着かない妙な気分になった。自分でも不愉快の訳が分からなかったのだけど、もう一度CMを見た時に気がついた。そこで描かれた若者のイメージ(の映像のコラージュ)が、極めて紋切り型の表現で、製作者自身がつかみ出した若者の日常ではないと思った。「今どきの若者ってこういうことでしょ?これをカッコいいっていうんだよ。わかる?」てな感じで、上から目線で、こちらの感じ方までを決めつけられているような気がしたことが、不愉快の理由だった。

著作で辰野和夫さんも言っているが、ものを書く人、作る人は紋切り型の表現をしないように気をつけなければならない。それは何も言っていないのと同じだからだ。

書くことで手に入れたもの

まとめると、書くことの効用は、ぼくが見つけたもので3つある。

  1. 書くためにはまず読む。文章が上手いと思う作家が勧めるものを読む。目的がある読書なので、ただ読んでいるだけのときよりも良い作品・自分に合う作品と出会う機会が増えた。
  2. 常に、自分ならではの物の見方を追い求めるようになる。目の前で起こっていることの細部にまで注意を払うようになる。
  3. 自分の内側にあるものに気付く。自分の感じ方をじっと観察し、内側と会話することで「ぼく」という人間が良く分かるようになり、結果、感情的にも穏やかに過ごせるようになった。

……どうでしょう?はじめる前は、書くことで感情が落ち着くなんて、思いもしませんでした。

書くことのデメリット

物事には表裏が必ずある。書くことにも、もちろんデメリットがある。

  1. 書くことは辛い。読むよりも恐らく数十倍ツライ。何かを生み出すことは、いつだって苦しみがつきまとうのだ。もちろんその先に喜びがあるのだから続けられるのだけれど。
  2. 書くことを続けていても、必ず上達が見込めるわけでもない、と思う。しかし書くために読むことで、文章の良し悪しは段々と分かるようになる。つまり、自分の書いたものが益々イケてないことに気づいていくのだ!なんと!!

このように、書けないまでも文章の良し悪しだけは、すこしは分かるようになってきたのです。すると、過去に書いたものが気になってくる。前は満足していた文章にも満足いかなくなる。
でも、これは物事が上達していく上で、避けられないことでしょう。だから、本当は全部を消してしまいたい衝動をぐっと抑えて、ブログにはそのまま残しています。

ただどうしても許せないものもある。ブログのタイトルだけは、どうにも我慢ならなくなってきました。3つ書いているブログ、そのすべてが気に入らない。個人が書くブログにありがちですが、なんだか大げさなのです。一端の意見でも書いてやろうという下心が見えるような気がする。
それぞれを考えた時に参考にしたものがあって、タイトルに拝借した理由だけはなかなか良いと今でも思うのですが、それにちょっと手を加えた部分がダメなのです。さらに、タイトルに加えて、内容の傾向で分けていた3つのブログを使い分けること自体も、面倒になってきました。

ブログの統合・タイトル変更

3つ書いていたうち2つを、このブログにまとめます。んで、タイトルを「つるつるの手帖」としました。
元は読書感想文を書いていたもう一つのブログ「鶴の手帖」のもじりなのですが、「脳みそつるつる」なんて言葉もあって、やや自虐的なタイトルのような気もしますが、前よりはいいのでは。

これから記事をすこしずつ引っ越しします。引っ越しながらついでに、文章の気になったところを若干加筆したり削ったりします。そのまま残すと言っても、やっぱり気になるところもあるのですよ。あはは。

直しながらなので、文章の引っ越しを含めて、更新はのんびりとしたペースになりそうですが、これからもよろしくお願いします。
では。