つるつるの手帖

なにかおもしろいことないかなー

沈黙|遠藤周作

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

※ 今回のエントリーは、以前書いていた「鶴の手帖」というブログの2013年5月29日の内容に、若干の修正を加えて転載した記事となります。

『沈黙』のテーマ

沈黙を読んだ。
宗教を扱ったシリアスな作品だったが、文章は読みやすく、2日で一気に読んでしまった。

<要約>
舞台は、鎖国と基督(キリスト)教への弾圧が行われていた江戸初期の長崎。司祭ロドリゴは、拷問に屈し棄教したと噂される、フェレイラ教父を探しに、日本へと密入国してくる。しかし、自身も役人に追われる身となり、遂には捕らえられてしまう。投獄され、「転ぶ(棄教する)」事を強要されたロドリゴは、信仰心と、沈黙を貫く神への疑念の間で、板挟みになり苦悩する。


……作品のテーマを額面通り受け取るとすれば、「そのとき、神は私に何をしてくれるのか」ということだろうか。

しかし、信仰をほとんど意識することなく生活しているぼくにとって、「神は私に何をしてくれるのか? なぜ、助けを必要としているときでさえ、神は沈黙を守るのか」というこの主題は、正直、日常とかけ離れすぎていてピンと来ない。盆とお彼岸と地元のお祭りの時くらいしか、宗教を身近に想うこともないし、もちろんキリスト教徒ではないうえ、宗教全般に対する知識もないので、宗教を棄てることの怖さや重みといった、肝心な部分が理解できない。

ただ、それぞれの受け取り方で感想を持つことこそが、この作品に向き合うもっとも誠実な態度であるように感じたので、ぼくはこの物語を「なんでも勝手な解釈で自分のものにしてしまう『日本人の特性』が描かれた作品」として読んだ。

だが理解がおよばないようでいて、実はこのあたりが作品の裏のテーマなのではないかと思ったりする。

日本人の持つ「特性」

棄教したフェレイラ教父の言葉を借りて、作者、遠藤周作は言う。

「この国は沼地だ。(中略)どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。(中略)この国の者たちが、あの頃信じたものは、我々の神ではない。彼らの神々だった。それを私たちは、長い長い間知らず、日本人が基督(キリスト)教徒になったと思い込んでいた。(中略)この国で我々のたてた教会で、日本人たちが祈っていたのは基督教の神ではない。私たちには理解できぬ、彼等流に屈折された神だった。もしあれを神というなら」

……神という部分を、他のものに置き換えたとしてもそのまま、批判的な視点から日本という国を言い表している言葉に聞こえませんか?
「ベースボールと野球」とか「英語とカタカナ言葉」に、その内容を置き換えても、日本人の特性を言い表す言葉として、ほとんどそのまま通じるような気がする。

日本人は、新しい物事に独自の解釈を付け加えて、自分たちの社会に取り込む力に長けているのだろう。これは、もちろん日本人の素晴らしい部分ではあるのだけれど、外側から眺めたときには、屈折して見えることもある。フェレイラは、その影の部分にスポットを当てている。

日本は四方を海で囲まれてはいるが、起源をたどれば、大陸や西洋にそのルーツを見つけられる文化も多い。ただ、今でも残っているものを見渡せば、日本国内で独自の解釈が加わってはじめて、「日本らしい」文化として定着していった側面があると思う。文化だけでなく、言語や技術や意匠、その他諸々。
近年でも、自動車をはじめとした工業製品は、日本という国のモノづくりを経由したことで、より完成度が高められたと思うし、日本人大リーガーの活躍も、やはり日本の「野球」を通過した現代のベースボールの、ひとつの完成形と呼べるのだろう。
これらはある意味、誤解の道を辿ったことで、日本人特有の感性が付け加えられた、幸せな成功例であるのかも知れない。

しかし、先のフェレイラの言葉の中で「屈折した」と表現されていたように、日本人の特性として、取り込む時にはあくまで、元より我々の中にあったものを基準とした解釈をするため、時に原型から大きく乖離した形で定着してしまうものもある。
「野球」は戦後、長きにわたって「精神論」や「根性」と結び付けられた「野球道」であった。また、モノづくりに真面目に取り組めば、日本は今後も経済大国としての威厳を保っていけるだろう、という楽観的な日本賛美も、日本人特有の勘違いを起点とした意見だと思う。
アメリカ人が発音する「McDonald's」が、どうひねられて「マクドナルド」と呼ばれるようになったのかなど、僕には見当がつかないし、日本国内でしか通用しない異国の言葉に、果たして意味があるのか、よくわからない。

僕自身、新しい文化や思想に触れたとき、できるだけそのまま理解したいと思う気持ちはあるのだけれど、まずはいつもの使い慣れた物差しで測ってみよう、と思うことが多い。

世界的な視野で論じたとき、我々日本人は総じてオッチョコチョイなのだろうか?
いずれにせよ、幸せな誤解、愚かな勘違い、そのどちらも含んだ上での日本人である。

キチジロー

また、「沈黙」には、キチジローという臆病者が出てくる。
この人物は臆病で弱い人間として描かれ、踏み絵は簡単に踏んでしまうし、遂には銀30枚でロドリゴを役人に引き渡してしまった。最後までつきまとってくるキチジローを、ロドリゴは終始、裏切り者ユダと比較しながら嫌悪するのだが、なぜだか本気では憎んでいない。
人間は必ず弱い部分を持っている。この人物、遠藤周作氏ご本人がモデルだそうだが、すべての読者にとっても、物語を読み進める中で、キチジローの中に自分を見つけるのではないか。
だとしたら、先の例に倣って、この物語を経済や野球に読み替えたとき、キチジローとは、何を象徴しているのだろう?

キチジローは言う。

「この世にはなあ、弱か者と強か者のござります。強か者はどげん責苦にもめげず、ハライソに参れましょうが、おいのように生まれつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責苦を受ければ……」

経済に置き換えれば、ビジネスの荒波から取り残された、経済的弱者といったところか。また、野球の場合は、センスはあるのに根性はなくて、野球道から脱落していった野球少年たちを指すのか。

最後に、司祭ロドリゴを棄教させた、長崎奉行イノウエは言う。

「日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ、パードレ」

また、転んだ後のロドリゴは、キチジローにこう言う。

「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」

社会ではしばしば効率が優先される。
効率とはすなわち、能力が高い者が、能力が高い者にとって一番良いと思う方法を選択し、要領よくスピーディーに物事を進める、ということだ。
また、「目標を紙に書いていつもそれを唱えれば、必ず夢はかなう」とか、「努力した者だけが報われる」といった言葉を使いつつ、強き者の論理が、そのまま人生における真理として語られることもある。

リーマンショック後の不況や、東日本大震災を経験したこの国では、政治の荒廃や暴走、また資本主義の仕組みそのものの限界も叫ばれていたりする。

次の時代の日本という国が、強き者のためだけに存在することがないよう、臆病者のボクは願います。
……しかし、宗教だとか、屁理屈を抜きで読んでも十分面白いです、「沈黙」

映画「沈黙」

篠田正浩監督の手で、1971年に『沈黙 SILENCE』という映画が作られたそうですが、ぼくは未見です。
近々、マーティン・スコセッシ監督で映画化されるそうです。期待したい。
スコセッシ監督の『沈黙』映画化にアンドリュー・ガーフィールドと渡辺 謙が出演 | GQ JAPAN

……と思ったら、ちょうど昨日(2015/02/11)のこと。こんな記事が……。

……大丈夫かな……。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)