砂の女|安部公房
※ 今回のエントリーは、以前書いていた「鶴の手帖」というブログの2013年6月23日の内容に、若干の修正を加えて転載した記事となります。
「砂の女」の記憶
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映画版「砂の女」は、たぶん高校生のころ……いや、それがいつだったのかおもい出せないほどの昔に、いちどだけ観ました。
モノクロの映像と不気味なオープニング、岸田今日子の顔は、ぼんやりと覚えています。しかし、それ以外は、内容も結末もまったく記憶にありません。
実家の古いテレビで、BSの映画放映でも観たのか……そういえば部屋には、他に誰か居た気もします。
ひょっとしたら父親あたりが観ていたのを、途中から一緒に観たのかも……いや、オープニングの記憶はあるので、一緒に観はじめたものの続けるのが気まずくなり、途中で席を立ったのかも知れません。
いずれにせよ、映画の印象はほとんど残っていなかったので、安部公房の小説、「砂の女」は、予備知識なしの新鮮な気持ちで読み始めました。
大長編というわけでもないが、それほど短くもないこの作品、しかし気がつけば、あっという間に読み終わってしまいました。
小説「砂の女」
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砂だらけの村に迷い込んだ男と、そこに住む女の、奇妙な生活。
男、昆虫採集、砂に覆われた貧村、村民の態度、蟻地獄の中の朽ちかけた家、そこに住む女、砂かきという終わりのない単純労働、外された縄梯子、なかなか手に入れられない水……。
……などの事柄が、精密に描写されています。
しかし、物語を構成するそれらの要素が、なにか別の事象を暗示させ、なおかつ描かれる状況が非日常的であるため、この作品を、どこか妙に生々しい寓話として受け取りました。寓話ですから、読み手の立場や心理状態に応じて、先に挙げた諸々の要素を、何か別のものに置き換えて読むことができます。
ぼくは、読み進めている間中ずっと、社会人として過ごした幾つかの会社のことを思い浮かべ、自分自身を主人公の男に投影させて読みました。こういう読み方をすると、「砂の女」は、自分にぐっと近づいてきます。
例えば、主人公の心情を反映したこんな場面です。
我慢ならない状況から仮病を使ってでも抜けだそうとする、ある同僚のことを蔑んだ気持ちで思い出す……。
ぼくの経験の中に、それらと直接比較できることがあったわけでもないのに、なんだか自分が過去に行った卑怯な行いを告発されているようで、読んでいて気分が悪くなるほどでした。
結末でさえも、受け取り方ひとつで真逆の解釈ができそうです。終盤の展開は私には、前向きになった主人公の心の表れだと思えましたが、もし落ち込んだときに読んでいたら、諦めとして受け取ってしまうかも知れない、とも思いました。
読み手の心持ちひとつで、良い結末にも悪い結末にも思えてしまう、そんなところがいい。
つまりぼくは、ぼくとは何の関係もない作家が書いた本を読むことで、なぜか自分自身の本音と対話することができたのです。
優れた小説には、こういう側面があります。例えばこれが、物事を考え始める起点となる。
他の人は、この作品から何を感じたのかを知りたくなり、ネットに挙げられた感想もいくつか読みました。それらの中には、砂や砂かきを、意味のない受け入れがたいものの象徴として捉え、人生の不条理さを描いているのだ、といった意見がありました。
しかしあの結末を読んで、ぼくは少し違う印象を持ちました。
砂の中で延々と砂をかく毎日。
どんな労働にも、砂かきのように退屈な一面があります。労働の意義を正しく受けとって、最初からやりがいを持ってできる仕事、なんてものは稀でしょう。
仕事の意味を理解するには、時間が必要なのです。恐らく、最初に想像したよりも長い時間がかかります。それに加えて、物事にあたる当事者であることが必要です。安全な場所から勝手なことを言える、評論家的な立場などではいけません。
砂の中で抗い続ける男は、自らの手で長い時間をかけて砂をかいているからこそ、最後には砂の意味、砂かきの意義を見つけるのです。いや、確かなものではないのかもしれないが、その手がかりくらいは見つけた気がします。
物語の終盤を読み進めながら、生きていくことは不条理であるけれども、その不条理に肉付けをし、意味を持たせていくことが、すなわち生きるということなのだよ、と言われたような気がします。
また、読み進めるなかで次々と繰り出される、ため息が出てしまうような巧みな比喩。それもこの作品の醍醐味でしょう。描写は極めて写実的、且つそれら比喩も相まって、砂の匂いや味、じゃりじゃりと不快な触感などは、読み手までが主人公の横で経験しているように感じられます。
読後しばらく経って、この比喩を映像でどう表現したのかが気になり、改めて映画「砂の女」を観てみました。
映画「砂の女」
SUNA NO ONNA(Japanese Movie) - YouTube
小説を映像化して、原作と同質の世界観を展開することは、容易でないと思います。世の中には、原作と映画とでまったく印象が変わってしまっている作品も多い。
特にこの「砂の女」は、出来事と心情を行き来するような作品なので、視覚に直接訴えてくる映画では、自由な想像を制限されてしまう気がしたのですが、ここではその直接的な表現が上手くはまっています。安部公房自身の手による脚本と、映像表現の可能性を行きつ戻りつした、試行錯誤の結果なのではないでしょうか。
なるほど。抽象的な作品を映像にしようとするときには、逆に思い切り良く直接的な表現に切り替えても良いのですね。
喉の渇きや、肌にまとわりつく砂の不快感などは、小説の比喩表現と同質のものであった気がします。また、砂が崩れてくる場面は、映像の方が迫力があり、より恐怖が伝わってきました。
逆に、小説にあった、男が以前の生活を回想するシーンなどは、ばっさりと切り取られ、作品自体がコンパクトになったことで、主題が明確になっていたと思います。
俳優の存在感も抜群です。岡田英次さんの苦悩する主人公も良かったですが、なんといっても岸田今日子さんの怪演が……なんというか、不気味で可愛く、独特の世界を作っていました。
大好きな、武満徹さんの音楽(効果音?)も、映像と相性良く、男の鼓動が伝わってくるようでした。
そうそう、こういう、楽器による擬似的音響って、僕が子供の頃は結構聴いた気がするんだけど、最近の映画ではめっきり聴かないですね。わりと好きなんですが、表現方法として、もう古臭いのでしょうか。
また、オープニングのタイトルバック、不気味だった記憶があったのですが、今回見たらかっこいいではないですか。思わぬ収穫。
映画「砂の女」を観終えて
ところで、映画のロケ地は、静岡県の浜岡砂丘だそうです。浜岡と言えば、浜岡原子力発電所。
日本の原子力発電、最初の稼働は昭和38年で、小説「砂の女」の発表は37年、映画は39年で、ロケ地は原発建設前の浜岡砂丘。
……。
……「砂の女」には、かきだした砂を闇ルートで売るエピソードが、描かれています。砂と共に生き、しかし砂を恐れ、恐れているはずのその砂からの恩恵に依存して生きる、村の住民……。
……。
……原発もまた地元に密着して、その存在が在る訳です。
深読みすれば、この物語をそこに結びつけてしまいそうになるのですが、それはちょっと考え過ぎかな……。
ともかく、内容の幅も、想像の深さにも制限がない作品ですから、いつかまた読み返したときには、今回とは違った印象を受けるのかも知れません。
安部公房の「砂の女」小説と映画、どちらも強く心に残りました。
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