つるつるの手帖

なにかおもしろいことないかなー

ティファニーで朝食を|カポーティ:村上春樹 訳

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ティファニーで朝食を (新潮文庫)

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

※ 今回のエントリーは、以前書いていた「鶴の手帖」というブログの2013年8月18日の内容に、若干の修正を加えて転載した記事となります。

村上春樹訳「ティファニーで朝食を

村上春樹が翻訳を手がけた「ティファニーで朝食を 」を読む。龍口直太郎訳の方は、読んだ気もするがまったく覚えておらず。
一方、映画の「ティファニーで朝食を 」を観たのは、中学生か高校生の頃だったと思う。これも内容を思い出そうとしても、やっぱりさっぱりだが、拍子抜けするくらい内容の薄い映画だったような気もする。村上版の「あとがき」を読んでみると、映画版は小説とはずいぶん違う雰囲気のようだ。

この作品のヒロイン、ホリー・ゴライトリーのような女性を知っている人は、意外と多くいるのではないか。その外見や振る舞いが(「なんちゃってホリー」自身が願うほど)周囲に魅力的に映っているかどうかは別として。
偽りと真実の境目でくるくると踊っているような人。虚言癖……いや、癖とか病気とかいうよりも、嘘と現実とを区切ることをあえてしないまま、自身が思い描いた世界に身を委ねてしまっているような女性。
東京ラブストーリーのリカも、ホリーがモデルだとか。
例えば、ボヤキがトレードマークの某監督の夫人だとか、失脚した女性研究者なども、彼女のような人生を歩いてきた人間なのではないか?

今回「ティファニーで朝食を」を読み進めながら、ぼくも一人の女性を思い出していた。今から20年以上まえ、19歳のころの話だ。

ぼくの側にいた「なんちゃってホリー」

上京し、デザインの専門学校へ入学したばかりのぼくは、 毎日学校とアルバイト先を往復する単調な毎日を送っていた。一人暮らしをはじめたばかりの目には、世の中すべてが新鮮に映り、単調ではあるが、それなりに充実した日々だった。

ある日の放課後。
残った課題を片付けるために数名が教室に残っていると、授業ではほとんど発言せず、大人しい雰囲気の女の子がふいに話しかけてきたので、ぼくはちょっと驚いてしまった。メガネをかけていて、ダークトーンの目立たない服を好み、特定の友人としか話さないような女の子だ。休み時間には机でじっと文庫本を読みふけっているようなタイプだった。
彼女は、親しくない人間に自分から話しかけていくような人間には見えなかった。たしか課題の細かな内容について質問されたのだと思うが、話してみれば意外と会話のセンスも良く、表情も華やかな人だった。メガネをはずすと、ちょっと日本人にはいないような薄茶と緑がかった眼の色をしていて、よく見ればかなりの美人だ。
話しているうちに話題は映画や音楽に発展し、お互いの趣味が意外と合うことも分かった。すると、彼女が「良かったら今日これから渋谷に行って、母親の誕生日プレゼントを一緒に選んでくれ」と言い出した。
大人しい彼女が、ほぼ初対面の人間を誘うことに二度びっくりしたが、その日は特に予定もなかったので、結局彼女に付き合い、その日をきっかけに学校帰りにちょくちょく渋谷や新宿へ遊びに行くようになった。

遊びに行く、と言っても、こちらは上京したての田舎者。東京生まれの彼女の方が、どの街のことも詳しい。仲良くなった彼女はとてもおしゃべりだった。
ぼくの方は彼女をリードできるような経験も知識も、会話における気遣いさえ持ち合わせておらず、彼女が提案するがまま映画を観たり、お洒落なカフェにお茶を飲みに行ったり、彼女が話すことにほとんど頷いているだけで、毎日があっという間に過ぎていったように思う。

お茶を飲んでいるときに、彼女はよく子供のころの話をした。家族と一緒に写った昔の写真も見せてくれた。
また、少し前に流行っていた歌になぞらえて「子供の頃の写真を見せるのは、あなたが大切な人だからだ」というような意味のことを言った。
言われたら嬉しいはずの言葉だが、なぜかそれらすべてが目的を知らされないまま遂行される作戦のように思え、最後まで話しを聞いたら彼女の思惑に取り込まれてしまうような気がして、いつもぼくは、目の前のグラスの中で溶けかかっている氷に意識を集中させていた。


なぜ彼女にそこまでの警戒心を持っていたかというと、彼女はホリーのように、虚と実を行き来するようなところがあったからだ。
彼女の話によると、自分は中央線沿いのある街に、母親と妹の三人で高級マンションに住んでいる。母親はバリバリのキャリアウーマン。幼いころに両親は離婚してしまっているが、父親はある有名な劇団の主宰者であり、二人は今でも仲が良く頻繁に行き来している。自分は幼いころから芸術家になるべく名前もつけられ、特別な教育を受けた。デザインの学校に入ったのもそのためだと言う。おじいちゃんかおばあちゃんがどこかの国の人だとも言っていたように思う。鞄の中にはいつも何かしらの文庫本が入っていて、文章を引用しつつ、サン・テグジュペリの「星の王子さま」が好きだと言っていた。
他にも色んな話をしたが、今となっては、どこまでが本当だったのかわからない。ただ、彼女の話をこちらからもう一段掘り下げようとすると、とたんに機嫌が悪くなったり辻褄が合わないことを言い出すので、出来るだけ聞き役にまわるようにした。

一緒にいると彼女は、遠くを見つめるような表情をすることもあったが、本当に何かを想っている風でもなく、物思いにふける自分を気遣ってほしいと言っているようだったし、ぼくと会うこと自体、ぼくに興味を持っているというよりは、自分に興味を持ってくれそうな人間をついに探しあてた、という感じだった。
ある日遊びに行った帰り、彼女はぼくのアパートに寄っていきたがったが、なぜか良くないことが起こる予感がして、ぼくはそれを拒んだ。拒むような、さしたる理由があったわけでもなく、しかもぼくは若く、人並みに肉体的な衝動も持ち合わせてはいたが、それを自ら押さえ付けねばならぬほど、部屋に行きたがる彼女の動機が別のところにある気がした。

また、不思議なことに、はじめは地味なタイプに思えた彼女は、会う回数が増えるたびに、センスは良いが派手な服を着てくるようになり、いつの間にか教室ではメガネも外し、華やいだ雰囲気を身につけていった。後から考えてみると、最初に話しかけてきた時点で彼女には何か目的があり、次第に派手になっていった服装も、彼女なりの計算の上でそうしたことなのだろう。
学校でもぼくの友人達と良く話すようになり、休み時間に本を広げている事もなくなった。教室の中でやっと居場所を見つけたようにも見えた。
ぼくは、ごく短期間に変化していく彼女に戸惑い、消せない警戒心を飼い慣らしながら、それでも一緒に過ごす時間が多い彼女に対して好意を持つようになっていた。しかし同時に、彼女が特にぼく個人に対して興味を持っている訳ではないのだ、という確信も日増しに大きくなっていったので、惹かれながらも心理的には少し距離を置いていた。頭では距離を置きたいと思っているのに心は惹かれていく、というようなアンバランスさがあった。

後で思い返せば、まさにこういうドギマギするぼくを端で眺めることこそが、彼女の目的のひとつだったんじゃないかと思う。数ヶ月の間、ぼくの気持ちが高まっていくのと反比例するように、いつの間にか彼女はぼくから離れていった。そしてまた不思議な事に、彼女の服装も、元の落ち着いたものに戻っていき、特定の友人としか話さなくなり、休み時間には本を読んでいるようになった。
ぼくの方も、時間が過ぎることで、また気持ちも落ち着き、元のように学業とアルバイトの毎日に戻っていった。

ずいぶん経った頃、外野から彼女のよくない噂が聴こえてきた。同じように特定の男に声をかけ、飽きたら自分のほうから離れていく、というような事を繰り返している、というような噂だ。
それを聞いてぼくは、半分は納得し、なぜか半分は気の毒に思った。数ヶ月という短い期間ではあったけど、一緒にいる時間を持ったことで、彼女の本当の姿らしき部分が見えることもあったからだ。

今でも彼女の目的がどこにあったのかは分からない。どこまでが本当でどこまでが創作なのかも見えてこない。
ただ言えることは、彼女の眼は不思議な色をしていたし、名前も変わった響きだった。内容を諳んずることができるほど「星の王子さま」を愛読していたことも間違いない。
それに間違いなく、孤独な人だった。

ぼくも若かった。物事を善悪で判断しすぎていた。
虚だろうが実だろうが、彼女の話にそのまま乗っかってあげる優しさを持ちあわせていたのなら、あの時の彼女も、それにぼくだって、すこしは救われたのかも知れない。

ティファニーで朝食を」の主人公ポールが、ホリーの現在を気にかけながらも、能動的に捜すようなことはしない気持ちが、ぼくには分かる。

砂の女|安部公房

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※ 今回のエントリーは、以前書いていた「鶴の手帖」というブログの2013年6月23日の内容に、若干の修正を加えて転載した記事となります。

砂の女」の記憶

鈴木茂 BAND WAGON -Perfect Edition- (DVD付)

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文学よりも音楽が好きなぼくには、「砂の女」と聞いたら、安部公房ではなく鈴木茂の「バンドワゴン」の一曲目。しかし今回は、安部公房の「砂の女」について書いてみます。

映画版「砂の女」は、たぶん高校生のころ……いや、それがいつだったのかおもい出せないほどの昔に、いちどだけ観ました。

モノクロの映像と不気味なオープニング、岸田今日子の顔は、ぼんやりと覚えています。しかし、それ以外は、内容も結末もまったく記憶にありません。
実家の古いテレビで、BSの映画放映でも観たのか……そういえば部屋には、他に誰か居た気もします。
ひょっとしたら父親あたりが観ていたのを、途中から一緒に観たのかも……いや、オープニングの記憶はあるので、一緒に観はじめたものの続けるのが気まずくなり、途中で席を立ったのかも知れません。
いずれにせよ、映画の印象はほとんど残っていなかったので、安部公房の小説、「砂の女」は、予備知識なしの新鮮な気持ちで読み始めました。
大長編というわけでもないが、それほど短くもないこの作品、しかし気がつけば、あっという間に読み終わってしまいました。

小説「砂の女

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

本を閉じて、ため息が出る。むぅ……なるほど、これは面白い。
砂だらけの村に迷い込んだ男と、そこに住む女の、奇妙な生活。

男、昆虫採集、砂に覆われた貧村、村民の態度、蟻地獄の中の朽ちかけた家、そこに住む女、砂かきという終わりのない単純労働、外された縄梯子、なかなか手に入れられない水……。

……などの事柄が、精密に描写されています。
しかし、物語を構成するそれらの要素が、なにか別の事象を暗示させ、なおかつ描かれる状況が非日常的であるため、この作品を、どこか妙に生々しい寓話として受け取りました。寓話ですから、読み手の立場や心理状態に応じて、先に挙げた諸々の要素を、何か別のものに置き換えて読むことができます。
ぼくは、読み進めている間中ずっと、社会人として過ごした幾つかの会社のことを思い浮かべ、自分自身を主人公の男に投影させて読みました。こういう読み方をすると、「砂の女」は、自分にぐっと近づいてきます。

例えば、主人公の心情を反映したこんな場面です。
我慢ならない状況から仮病を使ってでも抜けだそうとする、ある同僚のことを蔑んだ気持ちで思い出す……。
ぼくの経験の中に、それらと直接比較できることがあったわけでもないのに、なんだか自分が過去に行った卑怯な行いを告発されているようで、読んでいて気分が悪くなるほどでした。


結末でさえも、受け取り方ひとつで真逆の解釈ができそうです。終盤の展開は私には、前向きになった主人公の心の表れだと思えましたが、もし落ち込んだときに読んでいたら、諦めとして受け取ってしまうかも知れない、とも思いました。
読み手の心持ちひとつで、良い結末にも悪い結末にも思えてしまう、そんなところがいい。
つまりぼくは、ぼくとは何の関係もない作家が書いた本を読むことで、なぜか自分自身の本音と対話することができたのです。
優れた小説には、こういう側面があります。例えばこれが、物事を考え始める起点となる。


他の人は、この作品から何を感じたのかを知りたくなり、ネットに挙げられた感想もいくつか読みました。それらの中には、砂や砂かきを、意味のない受け入れがたいものの象徴として捉え、人生の不条理さを描いているのだ、といった意見がありました。
しかしあの結末を読んで、ぼくは少し違う印象を持ちました。

砂の中で延々と砂をかく毎日。
どんな労働にも、砂かきのように退屈な一面があります。労働の意義を正しく受けとって、最初からやりがいを持ってできる仕事、なんてものは稀でしょう。
仕事の意味を理解するには、時間が必要なのです。恐らく、最初に想像したよりも長い時間がかかります。それに加えて、物事にあたる当事者であることが必要です。安全な場所から勝手なことを言える、評論家的な立場などではいけません。
砂の中で抗い続ける男は、自らの手で長い時間をかけて砂をかいているからこそ、最後には砂の意味、砂かきの意義を見つけるのです。いや、確かなものではないのかもしれないが、その手がかりくらいは見つけた気がします。
物語の終盤を読み進めながら、生きていくことは不条理であるけれども、その不条理に肉付けをし、意味を持たせていくことが、すなわち生きるということなのだよ、と言われたような気がします。

また、読み進めるなかで次々と繰り出される、ため息が出てしまうような巧みな比喩。それもこの作品の醍醐味でしょう。描写は極めて写実的、且つそれら比喩も相まって、砂の匂いや味、じゃりじゃりと不快な触感などは、読み手までが主人公の横で経験しているように感じられます。

読後しばらく経って、この比喩を映像でどう表現したのかが気になり、改めて映画「砂の女」を観てみました。

映画「砂の女


SUNA NO ONNA(Japanese Movie) - YouTube

小説を映像化して、原作と同質の世界観を展開することは、容易でないと思います。世の中には、原作と映画とでまったく印象が変わってしまっている作品も多い。
特にこの「砂の女」は、出来事と心情を行き来するような作品なので、視覚に直接訴えてくる映画では、自由な想像を制限されてしまう気がしたのですが、ここではその直接的な表現が上手くはまっています。安部公房自身の手による脚本と、映像表現の可能性を行きつ戻りつした、試行錯誤の結果なのではないでしょうか。
なるほど。抽象的な作品を映像にしようとするときには、逆に思い切り良く直接的な表現に切り替えても良いのですね。

喉の渇きや、肌にまとわりつく砂の不快感などは、小説の比喩表現と同質のものであった気がします。また、砂が崩れてくる場面は、映像の方が迫力があり、より恐怖が伝わってきました。
逆に、小説にあった、男が以前の生活を回想するシーンなどは、ばっさりと切り取られ、作品自体がコンパクトになったことで、主題が明確になっていたと思います。

俳優の存在感も抜群です。岡田英次さんの苦悩する主人公も良かったですが、なんといっても岸田今日子さんの怪演が……なんというか、不気味で可愛く、独特の世界を作っていました。

大好きな、武満徹さんの音楽(効果音?)も、映像と相性良く、男の鼓動が伝わってくるようでした。
そうそう、こういう、楽器による擬似的音響って、僕が子供の頃は結構聴いた気がするんだけど、最近の映画ではめっきり聴かないですね。わりと好きなんですが、表現方法として、もう古臭いのでしょうか。
また、オープニングのタイトルバック、不気味だった記憶があったのですが、今回見たらかっこいいではないですか。思わぬ収穫。

映画「砂の女」を観終えて

ところで、映画のロケ地は、静岡県の浜岡砂丘だそうです。浜岡と言えば、浜岡原子力発電所
日本の原子力発電、最初の稼働は昭和38年で、小説「砂の女」の発表は37年、映画は39年で、ロケ地は原発建設前の浜岡砂丘。

……。
……「砂の女」には、かきだした砂を闇ルートで売るエピソードが、描かれています。砂と共に生き、しかし砂を恐れ、恐れているはずのその砂からの恩恵に依存して生きる、村の住民……。
……。
……原発もまた地元に密着して、その存在が在る訳です。
深読みすれば、この物語をそこに結びつけてしまいそうになるのですが、それはちょっと考え過ぎかな……。


ともかく、内容の幅も、想像の深さにも制限がない作品ですから、いつかまた読み返したときには、今回とは違った印象を受けるのかも知れません。

安部公房の「砂の女」小説と映画、どちらも強く心に残りました。

砂の女 (新潮文庫)

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砂の女 特別版 [DVD]

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沈黙|遠藤周作

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

※ 今回のエントリーは、以前書いていた「鶴の手帖」というブログの2013年5月29日の内容に、若干の修正を加えて転載した記事となります。

『沈黙』のテーマ

沈黙を読んだ。
宗教を扱ったシリアスな作品だったが、文章は読みやすく、2日で一気に読んでしまった。

<要約>
舞台は、鎖国と基督(キリスト)教への弾圧が行われていた江戸初期の長崎。司祭ロドリゴは、拷問に屈し棄教したと噂される、フェレイラ教父を探しに、日本へと密入国してくる。しかし、自身も役人に追われる身となり、遂には捕らえられてしまう。投獄され、「転ぶ(棄教する)」事を強要されたロドリゴは、信仰心と、沈黙を貫く神への疑念の間で、板挟みになり苦悩する。


……作品のテーマを額面通り受け取るとすれば、「そのとき、神は私に何をしてくれるのか」ということだろうか。

しかし、信仰をほとんど意識することなく生活しているぼくにとって、「神は私に何をしてくれるのか? なぜ、助けを必要としているときでさえ、神は沈黙を守るのか」というこの主題は、正直、日常とかけ離れすぎていてピンと来ない。盆とお彼岸と地元のお祭りの時くらいしか、宗教を身近に想うこともないし、もちろんキリスト教徒ではないうえ、宗教全般に対する知識もないので、宗教を棄てることの怖さや重みといった、肝心な部分が理解できない。

ただ、それぞれの受け取り方で感想を持つことこそが、この作品に向き合うもっとも誠実な態度であるように感じたので、ぼくはこの物語を「なんでも勝手な解釈で自分のものにしてしまう『日本人の特性』が描かれた作品」として読んだ。

だが理解がおよばないようでいて、実はこのあたりが作品の裏のテーマなのではないかと思ったりする。

日本人の持つ「特性」

棄教したフェレイラ教父の言葉を借りて、作者、遠藤周作は言う。

「この国は沼地だ。(中略)どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。(中略)この国の者たちが、あの頃信じたものは、我々の神ではない。彼らの神々だった。それを私たちは、長い長い間知らず、日本人が基督(キリスト)教徒になったと思い込んでいた。(中略)この国で我々のたてた教会で、日本人たちが祈っていたのは基督教の神ではない。私たちには理解できぬ、彼等流に屈折された神だった。もしあれを神というなら」

……神という部分を、他のものに置き換えたとしてもそのまま、批判的な視点から日本という国を言い表している言葉に聞こえませんか?
「ベースボールと野球」とか「英語とカタカナ言葉」に、その内容を置き換えても、日本人の特性を言い表す言葉として、ほとんどそのまま通じるような気がする。

日本人は、新しい物事に独自の解釈を付け加えて、自分たちの社会に取り込む力に長けているのだろう。これは、もちろん日本人の素晴らしい部分ではあるのだけれど、外側から眺めたときには、屈折して見えることもある。フェレイラは、その影の部分にスポットを当てている。

日本は四方を海で囲まれてはいるが、起源をたどれば、大陸や西洋にそのルーツを見つけられる文化も多い。ただ、今でも残っているものを見渡せば、日本国内で独自の解釈が加わってはじめて、「日本らしい」文化として定着していった側面があると思う。文化だけでなく、言語や技術や意匠、その他諸々。
近年でも、自動車をはじめとした工業製品は、日本という国のモノづくりを経由したことで、より完成度が高められたと思うし、日本人大リーガーの活躍も、やはり日本の「野球」を通過した現代のベースボールの、ひとつの完成形と呼べるのだろう。
これらはある意味、誤解の道を辿ったことで、日本人特有の感性が付け加えられた、幸せな成功例であるのかも知れない。

しかし、先のフェレイラの言葉の中で「屈折した」と表現されていたように、日本人の特性として、取り込む時にはあくまで、元より我々の中にあったものを基準とした解釈をするため、時に原型から大きく乖離した形で定着してしまうものもある。
「野球」は戦後、長きにわたって「精神論」や「根性」と結び付けられた「野球道」であった。また、モノづくりに真面目に取り組めば、日本は今後も経済大国としての威厳を保っていけるだろう、という楽観的な日本賛美も、日本人特有の勘違いを起点とした意見だと思う。
アメリカ人が発音する「McDonald's」が、どうひねられて「マクドナルド」と呼ばれるようになったのかなど、僕には見当がつかないし、日本国内でしか通用しない異国の言葉に、果たして意味があるのか、よくわからない。

僕自身、新しい文化や思想に触れたとき、できるだけそのまま理解したいと思う気持ちはあるのだけれど、まずはいつもの使い慣れた物差しで測ってみよう、と思うことが多い。

世界的な視野で論じたとき、我々日本人は総じてオッチョコチョイなのだろうか?
いずれにせよ、幸せな誤解、愚かな勘違い、そのどちらも含んだ上での日本人である。

キチジロー

また、「沈黙」には、キチジローという臆病者が出てくる。
この人物は臆病で弱い人間として描かれ、踏み絵は簡単に踏んでしまうし、遂には銀30枚でロドリゴを役人に引き渡してしまった。最後までつきまとってくるキチジローを、ロドリゴは終始、裏切り者ユダと比較しながら嫌悪するのだが、なぜだか本気では憎んでいない。
人間は必ず弱い部分を持っている。この人物、遠藤周作氏ご本人がモデルだそうだが、すべての読者にとっても、物語を読み進める中で、キチジローの中に自分を見つけるのではないか。
だとしたら、先の例に倣って、この物語を経済や野球に読み替えたとき、キチジローとは、何を象徴しているのだろう?

キチジローは言う。

「この世にはなあ、弱か者と強か者のござります。強か者はどげん責苦にもめげず、ハライソに参れましょうが、おいのように生まれつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責苦を受ければ……」

経済に置き換えれば、ビジネスの荒波から取り残された、経済的弱者といったところか。また、野球の場合は、センスはあるのに根性はなくて、野球道から脱落していった野球少年たちを指すのか。

最後に、司祭ロドリゴを棄教させた、長崎奉行イノウエは言う。

「日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ、パードレ」

また、転んだ後のロドリゴは、キチジローにこう言う。

「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」

社会ではしばしば効率が優先される。
効率とはすなわち、能力が高い者が、能力が高い者にとって一番良いと思う方法を選択し、要領よくスピーディーに物事を進める、ということだ。
また、「目標を紙に書いていつもそれを唱えれば、必ず夢はかなう」とか、「努力した者だけが報われる」といった言葉を使いつつ、強き者の論理が、そのまま人生における真理として語られることもある。

リーマンショック後の不況や、東日本大震災を経験したこの国では、政治の荒廃や暴走、また資本主義の仕組みそのものの限界も叫ばれていたりする。

次の時代の日本という国が、強き者のためだけに存在することがないよう、臆病者のボクは願います。
……しかし、宗教だとか、屁理屈を抜きで読んでも十分面白いです、「沈黙」

映画「沈黙」

篠田正浩監督の手で、1971年に『沈黙 SILENCE』という映画が作られたそうですが、ぼくは未見です。
近々、マーティン・スコセッシ監督で映画化されるそうです。期待したい。
スコセッシ監督の『沈黙』映画化にアンドリュー・ガーフィールドと渡辺 謙が出演 | GQ JAPAN

……と思ったら、ちょうど昨日(2015/02/11)のこと。こんな記事が……。

……大丈夫かな……。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)