つるつるの手帖

なにかおもしろいことないかなー

砂の女|安部公房

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※ 今回のエントリーは、以前書いていた「鶴の手帖」というブログの2013年6月23日の内容に、若干の修正を加えて転載した記事となります。

砂の女」の記憶

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文学よりも音楽が好きなぼくには、「砂の女」と聞いたら、安部公房ではなく鈴木茂の「バンドワゴン」の一曲目。しかし今回は、安部公房の「砂の女」について書いてみます。

映画版「砂の女」は、たぶん高校生のころ……いや、それがいつだったのかおもい出せないほどの昔に、いちどだけ観ました。

モノクロの映像と不気味なオープニング、岸田今日子の顔は、ぼんやりと覚えています。しかし、それ以外は、内容も結末もまったく記憶にありません。
実家の古いテレビで、BSの映画放映でも観たのか……そういえば部屋には、他に誰か居た気もします。
ひょっとしたら父親あたりが観ていたのを、途中から一緒に観たのかも……いや、オープニングの記憶はあるので、一緒に観はじめたものの続けるのが気まずくなり、途中で席を立ったのかも知れません。
いずれにせよ、映画の印象はほとんど残っていなかったので、安部公房の小説、「砂の女」は、予備知識なしの新鮮な気持ちで読み始めました。
大長編というわけでもないが、それほど短くもないこの作品、しかし気がつけば、あっという間に読み終わってしまいました。

小説「砂の女

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

本を閉じて、ため息が出る。むぅ……なるほど、これは面白い。
砂だらけの村に迷い込んだ男と、そこに住む女の、奇妙な生活。

男、昆虫採集、砂に覆われた貧村、村民の態度、蟻地獄の中の朽ちかけた家、そこに住む女、砂かきという終わりのない単純労働、外された縄梯子、なかなか手に入れられない水……。

……などの事柄が、精密に描写されています。
しかし、物語を構成するそれらの要素が、なにか別の事象を暗示させ、なおかつ描かれる状況が非日常的であるため、この作品を、どこか妙に生々しい寓話として受け取りました。寓話ですから、読み手の立場や心理状態に応じて、先に挙げた諸々の要素を、何か別のものに置き換えて読むことができます。
ぼくは、読み進めている間中ずっと、社会人として過ごした幾つかの会社のことを思い浮かべ、自分自身を主人公の男に投影させて読みました。こういう読み方をすると、「砂の女」は、自分にぐっと近づいてきます。

例えば、主人公の心情を反映したこんな場面です。
我慢ならない状況から仮病を使ってでも抜けだそうとする、ある同僚のことを蔑んだ気持ちで思い出す……。
ぼくの経験の中に、それらと直接比較できることがあったわけでもないのに、なんだか自分が過去に行った卑怯な行いを告発されているようで、読んでいて気分が悪くなるほどでした。


結末でさえも、受け取り方ひとつで真逆の解釈ができそうです。終盤の展開は私には、前向きになった主人公の心の表れだと思えましたが、もし落ち込んだときに読んでいたら、諦めとして受け取ってしまうかも知れない、とも思いました。
読み手の心持ちひとつで、良い結末にも悪い結末にも思えてしまう、そんなところがいい。
つまりぼくは、ぼくとは何の関係もない作家が書いた本を読むことで、なぜか自分自身の本音と対話することができたのです。
優れた小説には、こういう側面があります。例えばこれが、物事を考え始める起点となる。


他の人は、この作品から何を感じたのかを知りたくなり、ネットに挙げられた感想もいくつか読みました。それらの中には、砂や砂かきを、意味のない受け入れがたいものの象徴として捉え、人生の不条理さを描いているのだ、といった意見がありました。
しかしあの結末を読んで、ぼくは少し違う印象を持ちました。

砂の中で延々と砂をかく毎日。
どんな労働にも、砂かきのように退屈な一面があります。労働の意義を正しく受けとって、最初からやりがいを持ってできる仕事、なんてものは稀でしょう。
仕事の意味を理解するには、時間が必要なのです。恐らく、最初に想像したよりも長い時間がかかります。それに加えて、物事にあたる当事者であることが必要です。安全な場所から勝手なことを言える、評論家的な立場などではいけません。
砂の中で抗い続ける男は、自らの手で長い時間をかけて砂をかいているからこそ、最後には砂の意味、砂かきの意義を見つけるのです。いや、確かなものではないのかもしれないが、その手がかりくらいは見つけた気がします。
物語の終盤を読み進めながら、生きていくことは不条理であるけれども、その不条理に肉付けをし、意味を持たせていくことが、すなわち生きるということなのだよ、と言われたような気がします。

また、読み進めるなかで次々と繰り出される、ため息が出てしまうような巧みな比喩。それもこの作品の醍醐味でしょう。描写は極めて写実的、且つそれら比喩も相まって、砂の匂いや味、じゃりじゃりと不快な触感などは、読み手までが主人公の横で経験しているように感じられます。

読後しばらく経って、この比喩を映像でどう表現したのかが気になり、改めて映画「砂の女」を観てみました。

映画「砂の女


SUNA NO ONNA(Japanese Movie) - YouTube

小説を映像化して、原作と同質の世界観を展開することは、容易でないと思います。世の中には、原作と映画とでまったく印象が変わってしまっている作品も多い。
特にこの「砂の女」は、出来事と心情を行き来するような作品なので、視覚に直接訴えてくる映画では、自由な想像を制限されてしまう気がしたのですが、ここではその直接的な表現が上手くはまっています。安部公房自身の手による脚本と、映像表現の可能性を行きつ戻りつした、試行錯誤の結果なのではないでしょうか。
なるほど。抽象的な作品を映像にしようとするときには、逆に思い切り良く直接的な表現に切り替えても良いのですね。

喉の渇きや、肌にまとわりつく砂の不快感などは、小説の比喩表現と同質のものであった気がします。また、砂が崩れてくる場面は、映像の方が迫力があり、より恐怖が伝わってきました。
逆に、小説にあった、男が以前の生活を回想するシーンなどは、ばっさりと切り取られ、作品自体がコンパクトになったことで、主題が明確になっていたと思います。

俳優の存在感も抜群です。岡田英次さんの苦悩する主人公も良かったですが、なんといっても岸田今日子さんの怪演が……なんというか、不気味で可愛く、独特の世界を作っていました。

大好きな、武満徹さんの音楽(効果音?)も、映像と相性良く、男の鼓動が伝わってくるようでした。
そうそう、こういう、楽器による擬似的音響って、僕が子供の頃は結構聴いた気がするんだけど、最近の映画ではめっきり聴かないですね。わりと好きなんですが、表現方法として、もう古臭いのでしょうか。
また、オープニングのタイトルバック、不気味だった記憶があったのですが、今回見たらかっこいいではないですか。思わぬ収穫。

映画「砂の女」を観終えて

ところで、映画のロケ地は、静岡県の浜岡砂丘だそうです。浜岡と言えば、浜岡原子力発電所
日本の原子力発電、最初の稼働は昭和38年で、小説「砂の女」の発表は37年、映画は39年で、ロケ地は原発建設前の浜岡砂丘。

……。
……「砂の女」には、かきだした砂を闇ルートで売るエピソードが、描かれています。砂と共に生き、しかし砂を恐れ、恐れているはずのその砂からの恩恵に依存して生きる、村の住民……。
……。
……原発もまた地元に密着して、その存在が在る訳です。
深読みすれば、この物語をそこに結びつけてしまいそうになるのですが、それはちょっと考え過ぎかな……。


ともかく、内容の幅も、想像の深さにも制限がない作品ですから、いつかまた読み返したときには、今回とは違った印象を受けるのかも知れません。

安部公房の「砂の女」小説と映画、どちらも強く心に残りました。

砂の女 (新潮文庫)

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砂の女 特別版 [DVD]

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沈黙|遠藤周作

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

※ 今回のエントリーは、以前書いていた「鶴の手帖」というブログの2013年5月29日の内容に、若干の修正を加えて転載した記事となります。

『沈黙』のテーマ

沈黙を読んだ。
宗教を扱ったシリアスな作品だったが、文章は読みやすく、2日で一気に読んでしまった。

<要約>
舞台は、鎖国と基督(キリスト)教への弾圧が行われていた江戸初期の長崎。司祭ロドリゴは、拷問に屈し棄教したと噂される、フェレイラ教父を探しに、日本へと密入国してくる。しかし、自身も役人に追われる身となり、遂には捕らえられてしまう。投獄され、「転ぶ(棄教する)」事を強要されたロドリゴは、信仰心と、沈黙を貫く神への疑念の間で、板挟みになり苦悩する。


……作品のテーマを額面通り受け取るとすれば、「そのとき、神は私に何をしてくれるのか」ということだろうか。

しかし、信仰をほとんど意識することなく生活しているぼくにとって、「神は私に何をしてくれるのか? なぜ、助けを必要としているときでさえ、神は沈黙を守るのか」というこの主題は、正直、日常とかけ離れすぎていてピンと来ない。盆とお彼岸と地元のお祭りの時くらいしか、宗教を身近に想うこともないし、もちろんキリスト教徒ではないうえ、宗教全般に対する知識もないので、宗教を棄てることの怖さや重みといった、肝心な部分が理解できない。

ただ、それぞれの受け取り方で感想を持つことこそが、この作品に向き合うもっとも誠実な態度であるように感じたので、ぼくはこの物語を「なんでも勝手な解釈で自分のものにしてしまう『日本人の特性』が描かれた作品」として読んだ。

だが理解がおよばないようでいて、実はこのあたりが作品の裏のテーマなのではないかと思ったりする。

日本人の持つ「特性」

棄教したフェレイラ教父の言葉を借りて、作者、遠藤周作は言う。

「この国は沼地だ。(中略)どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。(中略)この国の者たちが、あの頃信じたものは、我々の神ではない。彼らの神々だった。それを私たちは、長い長い間知らず、日本人が基督(キリスト)教徒になったと思い込んでいた。(中略)この国で我々のたてた教会で、日本人たちが祈っていたのは基督教の神ではない。私たちには理解できぬ、彼等流に屈折された神だった。もしあれを神というなら」

……神という部分を、他のものに置き換えたとしてもそのまま、批判的な視点から日本という国を言い表している言葉に聞こえませんか?
「ベースボールと野球」とか「英語とカタカナ言葉」に、その内容を置き換えても、日本人の特性を言い表す言葉として、ほとんどそのまま通じるような気がする。

日本人は、新しい物事に独自の解釈を付け加えて、自分たちの社会に取り込む力に長けているのだろう。これは、もちろん日本人の素晴らしい部分ではあるのだけれど、外側から眺めたときには、屈折して見えることもある。フェレイラは、その影の部分にスポットを当てている。

日本は四方を海で囲まれてはいるが、起源をたどれば、大陸や西洋にそのルーツを見つけられる文化も多い。ただ、今でも残っているものを見渡せば、日本国内で独自の解釈が加わってはじめて、「日本らしい」文化として定着していった側面があると思う。文化だけでなく、言語や技術や意匠、その他諸々。
近年でも、自動車をはじめとした工業製品は、日本という国のモノづくりを経由したことで、より完成度が高められたと思うし、日本人大リーガーの活躍も、やはり日本の「野球」を通過した現代のベースボールの、ひとつの完成形と呼べるのだろう。
これらはある意味、誤解の道を辿ったことで、日本人特有の感性が付け加えられた、幸せな成功例であるのかも知れない。

しかし、先のフェレイラの言葉の中で「屈折した」と表現されていたように、日本人の特性として、取り込む時にはあくまで、元より我々の中にあったものを基準とした解釈をするため、時に原型から大きく乖離した形で定着してしまうものもある。
「野球」は戦後、長きにわたって「精神論」や「根性」と結び付けられた「野球道」であった。また、モノづくりに真面目に取り組めば、日本は今後も経済大国としての威厳を保っていけるだろう、という楽観的な日本賛美も、日本人特有の勘違いを起点とした意見だと思う。
アメリカ人が発音する「McDonald's」が、どうひねられて「マクドナルド」と呼ばれるようになったのかなど、僕には見当がつかないし、日本国内でしか通用しない異国の言葉に、果たして意味があるのか、よくわからない。

僕自身、新しい文化や思想に触れたとき、できるだけそのまま理解したいと思う気持ちはあるのだけれど、まずはいつもの使い慣れた物差しで測ってみよう、と思うことが多い。

世界的な視野で論じたとき、我々日本人は総じてオッチョコチョイなのだろうか?
いずれにせよ、幸せな誤解、愚かな勘違い、そのどちらも含んだ上での日本人である。

キチジロー

また、「沈黙」には、キチジローという臆病者が出てくる。
この人物は臆病で弱い人間として描かれ、踏み絵は簡単に踏んでしまうし、遂には銀30枚でロドリゴを役人に引き渡してしまった。最後までつきまとってくるキチジローを、ロドリゴは終始、裏切り者ユダと比較しながら嫌悪するのだが、なぜだか本気では憎んでいない。
人間は必ず弱い部分を持っている。この人物、遠藤周作氏ご本人がモデルだそうだが、すべての読者にとっても、物語を読み進める中で、キチジローの中に自分を見つけるのではないか。
だとしたら、先の例に倣って、この物語を経済や野球に読み替えたとき、キチジローとは、何を象徴しているのだろう?

キチジローは言う。

「この世にはなあ、弱か者と強か者のござります。強か者はどげん責苦にもめげず、ハライソに参れましょうが、おいのように生まれつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責苦を受ければ……」

経済に置き換えれば、ビジネスの荒波から取り残された、経済的弱者といったところか。また、野球の場合は、センスはあるのに根性はなくて、野球道から脱落していった野球少年たちを指すのか。

最後に、司祭ロドリゴを棄教させた、長崎奉行イノウエは言う。

「日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ、パードレ」

また、転んだ後のロドリゴは、キチジローにこう言う。

「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」

社会ではしばしば効率が優先される。
効率とはすなわち、能力が高い者が、能力が高い者にとって一番良いと思う方法を選択し、要領よくスピーディーに物事を進める、ということだ。
また、「目標を紙に書いていつもそれを唱えれば、必ず夢はかなう」とか、「努力した者だけが報われる」といった言葉を使いつつ、強き者の論理が、そのまま人生における真理として語られることもある。

リーマンショック後の不況や、東日本大震災を経験したこの国では、政治の荒廃や暴走、また資本主義の仕組みそのものの限界も叫ばれていたりする。

次の時代の日本という国が、強き者のためだけに存在することがないよう、臆病者のボクは願います。
……しかし、宗教だとか、屁理屈を抜きで読んでも十分面白いです、「沈黙」

映画「沈黙」

篠田正浩監督の手で、1971年に『沈黙 SILENCE』という映画が作られたそうですが、ぼくは未見です。
近々、マーティン・スコセッシ監督で映画化されるそうです。期待したい。
スコセッシ監督の『沈黙』映画化にアンドリュー・ガーフィールドと渡辺 謙が出演 | GQ JAPAN

……と思ったら、ちょうど昨日(2015/02/11)のこと。こんな記事が……。

……大丈夫かな……。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

『ビル・カニンガム&ニューヨーク』と「未来の働き方」

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※ 今回のエントリーは、以前書いていた「鶴の手帖」というブログの2013年7月27日の内容に、若干の修正を加えて転載した記事となります。

『未来の働き方を考えよう』を読んだ

未来の働き方を考えよう 人生は二回、生きられる

未来の働き方を考えよう 人生は二回、生きられる

ちきりんさんの『未来の働き方を考えよう』を読んで、自分の未来の働き方が気になりだしました。
その後、映画『ビル・カニンガム&ニューヨーク』を観て、理想とする未来の働き方が少し見えてきたような気がします。

たぶん僕は「働く」ってこと自体が好きなんだと思う。
現在の仕事に全面的に満足しているわけではないですが、充実した毎日です。動きまわり、よくしゃべるからでしょうか、「あなたって、仕事が好きなんでしょ?」と聞かれることもある。
でも、今の仕事を楽しむのと同時に、もっと楽しい働き方はないだろうか、ってことだって、いつも考えています。

『未来の働き方を考えよう』からは、色々なヒントをもらったのですが、同時に不安も感じました。ちきりんさんはこの中で、40歳くらいで今の仕事を一旦リセットし、今までとは違った仕事を選択してみたらどうだろう?と、提案されています。本書のテーマであり、すごく良いアイディアだと思う。しかし、内容に共感はしましたが、読んだからといって、未来の働き方が具体的に見えてきた訳ではなく、そこに不安の原因があるわけです。

今までにやってきた仕事を振り返ってみたときに、歩いてきた道のりに自信や充実感はあるけれど、それはそれ。40歳を越えた今、もう一度価値観や判断の基準を見直す時期に来ていると感じています。

ビル・カニンガム&ニューヨーク

(※ 内容に踏み込んで書いた部分があるため、多少のネタバレが含まれます)

ビル・カニンガム&ニューヨーク [DVD]

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そんな矢先、ネットである映画の評判を読みました。『 ビル・カニンガム&ニューヨーク 』というドキュメンタリー映画です。
予告編を観てみたら、主人公のビル・カニンガムさんは、かなりのご高齢であるが、いつも自転車で動きまわっていて、笑顔がとびきり素晴らしい。ぜひ本編を観てみたいと思いました。
著名人による映画宣伝のためのコメントには、正直しらけてしまうことも多いのですが、ビルさんを称賛するVOGUEの名物編集長、アナ・ウィンターの言葉には共感を覚えました。ストリートファッションに対する彼の目利きの確かさと人間的な魅力、仕事に取り組む姿勢に、最大の敬意を払っています。


『ビル・カニンガム&ニューヨーク』 予告篇 - YouTube

なるほど、ビルさんは仕事が大好きなようだ。彼のやっていること、話していることは、今しっかりと見ておくべきだろう。
足を運んだのは、浜松市田町のミニシアター『浜松シネマ・イーラ
たいした前振りもなく映画が始まりました。唐突に始まるところが逆に、ドキュメントとして誠実な作りに思えます。

主人公のビル・カニンガムさんは、1929年生まれだそうですから今年で84歳(映画は2010年の作品であり、ここでの彼は82歳)ニューヨークのストリートファッションのスナップを50年にわたって撮り続けているそうです。
ファッションが大好きで、その世界では一目置かれている彼なのに、普段のユニフォームはどこにでも売っているような青い作業着。雨の日には、自分で補修しながら着続けている雨合羽を羽織ります。毎日、愛用するシュウインの自転車に乗って街に出、個性的なファッションに身を包んだ人々をカメラで撮影します。
彼は今でも毎日が忙しく、仕事が一番楽しいと言う。自転車で、渋滞の隙間をスイスイと走り抜けるさまにはびっくりしてしまいますが、そのパワフルな仕事ぶりは、とても80代には見えません。
撮った写真は、共通するテーマを持ってニューヨーク・タイムズ紙のコラムにまとめられます。コラムは写真中心のもので、予告編にもありますが、「みな、彼のため(ビルに写真を撮られるため)に服を着る」とアナ・ウィンターに言わせてしまいます。

仕事をしている彼の笑顔は、なぜあんなに素敵なのか?
映画を観ている間中ずっと気になっていたのですが、これからの働き方を考える上で、是非とも参考にしたい部分です。

この作品は、準備に10年を要したそうです。そのうち、表には出たがらないビルさんの説得に8年を費やしたそう。この話からも既にビルさんの人柄が伝わってくるようですが、どうしたら彼のように、80歳を越えてまで楽しく仕事に取り組めるのでしょう?

80歳を越えても楽しく仕事をするためには

ぼくも、ビルさんのように80歳まで楽しく仕事をしていたい。映画を観て、感じたことを6つにまとめてみました。

1. 大好きなことに取り組んでいること

まずはこれが原則だと思います。しかし僕を含め、大好きなことが明確になっていない人も多いと思います。まずは自分の内面と対話して、大好きなことを明らかにする必要があります。ひとつかふたつに絞り込む作業も必要です。

2. ある程度の専門性があること

自身をコモディティ化させないためには「大好き」だけでは足りないようです。ビルの場合、直感で撮りまくった写真の中に、時代の秩序と呼べるような共通項を見つけ、それを再構成してコラムにまとめる『編集する能力』が高いのだと思います。

3. 気に入ってくれる人が一定数いること

ビルにはファンがいます。コラムのファンもいますし、フォトグラファーとしての技量や、ビルという人間のファンもいます。より多くのファンがいれば、そこから生まれる需要もあります。

4. 金銭的な報酬以外の動機付けができること

ファンの中から需要が生まれる、と言いつつも、それが直接的な収入に結び付かない(結び付けない)場合もあります。事実、ビル自身は連載するコラムからの報酬は受け取らないようです。仕事の報酬は次の仕事、という言葉もありますが、ビルもまた、動機はお金以外にあるのです。

5. プライベートな部分を、経済的にコンパクトにまとめていること

好きなこと、やりたいことを明確にするのと同時に、やらないこともはっきりとしています。普段の生活は住む場所も含めて極めて質素、ファッション以外、食べることなどにもまったく興味は無いそう。例えば、ファッション関係の集まりに出向いても、そこでは飲み物、食べ物を口にしません。パーティーに参加はすれど、彼の目的はその部分ではないのです。

6. 生活の中に、体力を維持する工夫があること

やはり体が資本です。やりたいことがあっても体力が追いつかなければ成果に結び付けられません。ビルの移動手段が自転車なのも、ひょっとしたらこの辺が理由なのかも知れません。


……ビルはしばしば笑いながら、自分自身を「頭がおかしい人」であると、自虐的に評します。確かに、世の中の常識からは外れているようにも思えますが、いやいや、おかしいのは我々のほうかもしれない。

例えば彼はお金では動きません。報酬は受け取らない。お金を受け取ったら、くれた人の言うことを聞かないといけないが、それよりも自由を選択する、と言う。この、金銭よりも自由を優先する、というのは、ビルが自分自身で決めた価値観です。
僕を含め多くの人は「仕事をしたら、それ相応の金銭的な対価を求める。生活していくためには当然のことだ」という考え方に基いて、日々を生きています。たぶんそれは、周りの皆もそうしているからだし、その価値観に何の疑問も持たなかったからです。

でも改めて考えてみたら、これって自分で考えて作り上げたものじゃない。
ビルと僕の価値観の成り立ち、自分で決めたか、既成の考え方を取り入れただけか……ここには大きな開きがある。

印象的だったエピソード

また、昔の出来事として描かれていた、こんなエピソードが印象的でした。

あるときビルは、ファッションショーで発表された洋服を、実際に普通の人が街でどう着こなしているのか?という切り口で写真を撮りました。ブランド服を着こなすモデルの写真と、それと同じ服を着た一般人のストリートスナップを、横に並べて構成したのです。
ビルの目的は、一般の人の着こなしを賛美することでした。ファッションの本質は権威ではない、というようなメッセージが込められていたと思います。どちらかと言えば、モデルの方を皮肉るような(でも決してこき下ろしていた訳ではない)内容でした。

しかし出版社はビルの意図とは無関係なコピーに入れ替え、『あの素晴らしい服が、ストリートでは、こんな惨めな着こなしになってしまう』といった構成に改変してしまいました。
この時、ビルさんはひどく動揺したそうです。写真に映る一般の人々が傷ついていないか、とても気にしていたとか。その後、この出版社とは仕事をしなくなったそうです。

これがビルさんの生き方の本質なのでしょう。先にまとめたような、仕事を楽しむための姿勢も、こうした辛い経験を経由したものであるから、我々に訴えてくるものがあるのだと思います。

好きになれなかったシーン

ただひとつだけ、作品の最後のセンテンスで、ビルさんに少し意地悪な質問をした部分が、個人的は好きになれませんでした。遠回しでしたが、インタビュアーが恋愛と宗教について質問したのです。恋愛の質問に彼は少し困ったような顔を覗かせ、次の質問、宗教ーー特に日曜日の礼拝について聞かれたときには、絶句されてしまいました。
質問者は、彼のセクシャリティと、内面でその志向とどう向き合ってきたのか、という部分に触れたわけです。

しかし、映画を観ていた人なら、そこはあえて取りあげなくても気づくこと。
この質問に答えるビルさんの表情を、作品の締めのハイライトとして盛り込んだのは、ただ下世話な興味からのように思え、あまりよい趣味でないように感じました。

ファッションカメラマン「ビル・カニンガム」

しかし、全編を通して本作は、ビル・カニンガムという生きる伝説にスポットを当てた、素晴らしいドキュメンタリー作品でした。

最後のシーンはまた、普段のビルらしく、ストリートで写真を撮りまくる映像でしたが、そこで流れた、ニコとヴェルヴェッツの『I'll be your Mirror』もニューヨークらしくて良かった。

ファッションに興味があってもなくても、これからの働き方を考える観点からも、映画『 ビル・カニンガム&ニューヨーク 』は、面白い作品だと思います。


The Velvet Underground & Nico - I'll Be Your ...

未来の働き方を考えよう 人生は二回、生きられる

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